口笛
휘파람 | ||
1990年創作、趙基天 (조기천)作詞、リ・ジョンオ (리종오)作曲 | ||
|
■解説
1990年ごろから90年代半ばにかけ、朝鮮音楽は空前絶後の大衆歌謡黄金期をむかえた。金正日総書記の指導と庇護のもと、その最大の担い手となったのが普天堡電子楽団である。この時期の普天堡電子楽団の創作活動は、理論においても実践においても、朝鮮音楽にとって大きな転機となった。そして、この黄金時代の先頭を切った曲こそ普天堡電子楽団のリ・ジョンオが作曲した「口笛」だった。
朝鮮音楽に「ヒット曲」という概念を当てはめられるのかどうかには疑問の余地があるが、それでもこの「口笛」に関しては「朝鮮の大衆歌謡史上最大のヒット曲」と断言してしまっても問題はないだろう。ただでさえ男女の恋愛を描いた歌謡曲が少ない朝鮮にあって、リアリティあふれる歌詞とそれを引き立てるうら悲しげなメロディが絶妙に溶けあったこの「口笛」がどれほど人々の心を掴んだことか、想像に難くない。
ところで、その知名度ゆえ、「口笛」は“北朝鮮を代表する歌謡曲”として日本の書籍やメディアにも少なからず取りあげられている。そういった例のひとつがテリー伊藤『お笑い北朝鮮』(1993年)。同書は「平壌の若者はこんな歌を聴いている」と題したコーナーで「口笛」を紹介しているのだが、その説明書きにこんなくだりがある。
この歌詞内容は、韓国では60年代の学生運動像というレベル。ポクスンというのは女性の名前で今の韓国ではおばあちゃんに多いどちらかというと古い名前だ。この記述に目を通した読者は「ふーん、韓国では古い名前なのか。まあ北朝鮮だしなー」というようなことを思うかもしれない。現に、わたしも十数年前に初めて同書を読んだときから長いこと、そういう印象しかなかった。しかし、実はこれにも秘密がある。
「口笛」の歌謡曲としての創作年度は1990年だ。つまり、リ・ジョンオが曲を作り、1本の歌謡曲として世に送り出されたのはその年ということだろう。
では、歌詞はいつ作られたのかというと、実は1947年。管見の限り、確認される初出は北朝鮮文学芸術総同盟機関誌『文学芸術』第2号(1947年12月)である。同号に掲載された趙基天の作品4篇のうちひとつが「口笛」だったのだ。
1947年というと共和国創建の前年。「ポクスン(福順)」という「古い」名前が登場する理由も、これで説明がつく。1947年当時は北でも南でもありふれた名前だったに違いない。
作詞者の趙基天 [チョ・ギチョン] (右写真)は1913年11月6日、中央アジアに生まれ、朝鮮解放とともに朝鮮へ帰国した詩人である。朴世永や李燦らと並び、朝鮮詩界の黎明期を切り拓いた。しかし趙基天は1951年7月31日、朝鮮戦争のさなかに戦死。解放から死までの約6年間に彼は数多くの優れた詩を残しており、なかでも音楽が付けられた作品としては「カンタータ《鴨緑江》」(1949年創作、金玉成作曲)、「聞慶峠」(1950年創作、李冕相作曲)、そして「口笛」などがある。
とはいっても1947年の「口笛」は歌の歌詞として作られたわけではなく、普通の詩である。オリジナルはこちらで見ることができるが、内容はおおむね同一であるものの、歌謡曲「口笛」の歌詞とはいくらか異なる(「ポクスン」の名前はそのままだが)。
普天堡電子楽団が趙基天の詩を歌謡曲に仕立て上げ、1990年に発表した経緯について、まだ詳しいことは調べきれていない。しかし、解放直後の詩(しかも男女の恋愛がテーマのそれ)を引っ張り出してきて改作し、曲を付け、結果的に「朝鮮音楽史上最大のヒット曲」を生み出したリ・ジョンオと普天堡電子楽団のクリエイティビティーには驚嘆するほかない。
■動画
====================
2013/06/03 趙基天の原典について情報を追加
2017/03/19 体裁を改め、解説の表現を少し修正