2016年2月16日火曜日

【2.16慶祝特集】芸術公演「追憶の歌」を振り返る

2015年は、朝鮮音楽にとって激動の1年であった。前例の踏襲を基本姿勢とする北朝鮮の音楽政策にあって、2015年には、これまで朝鮮音楽に接してきた者の「常識」を越えるような大胆な現状変更が見られたためだ。ここでは、その「変化」の台風の目となった芸術公演「追憶の歌 (추억의 노래)」(2015年2月〜4月)を振り返り、同公演がいかなる点において画期性を有していたか確認したいと思う。


■ 芸術公演「追憶の歌」の概要

▲第7次全国体育人大会参加者らが芸術公演「追憶の歌」を鑑賞したことを報じた記事。
2015年3月30日付労働新聞より

芸術公演「追憶の歌」は、2015年2月から4月にかけ、平壌の人民劇場で開かれた。朝鮮中央通信によれば、本公演は2月21日の初演以来、期日の延長を繰り返し、公演回数が70回に達した4月16日にようやく終演した예술공연 《추억의 노래》 70회。観覧者の総数は10万8,300人あまりに達したという。上記会期の足掛け日数は55日間であることから、1日のうちに複数回の上演が行われた日もあったと考えられる。なお、終演後、2015年中盤には木欄ビデオ社より本公演の「実況録画」DVDが制作・発売された。


「追憶の歌」というタイトルが示唆するように、本公演は最新の音楽を取り上げるものではない。本公演を貫くテーマは「金正日と音楽」である。舞台美術には故・金正日総書記を象徴するモチーフである「金正日花」のモチーフが用いられているほか、公演中にも金正日総書記への言及や、金正日総書記に関連する歌や写真が数多く取り入れられた。必然的に、出演者も金正日総書記の指導を直接受けた世代、すなわち1960年代後半〜1990年代に活躍した音楽家たちが中心である

本公演に出演した音楽家たちの主な出身団体は、次の通りである。なお、ここでは便宜上、公演を①〜③という3パートに区切った。

①万寿台(マンスデ)芸術団など
②普天堡(ポチョンボ)電子楽団
③王在山(ワンジェサン)芸術団

上記①〜③のすべてについて詳述したいところだが、残念ながらそこまでの余裕はない。ここでは、上記のうち②と③において、普天堡電子楽団および王在山芸術団がいわば「復活」を遂げたことに関する情報の整理に専念する。そのためには、まず、両楽団が本公演までいかなる状況に置かれていたか確認する必要があろう

■ 「追憶の歌」までの普天堡と王在山

普天堡電子楽団(1985年結成)と王在山芸術団(旧称・王在山軽音楽団、1983年結成)は、ともに1990年代の大衆歌謡黄金期を支えた楽団である。さらに、結成の経緯こそ異なるものの、両楽団とも金正日総書記の個人的な庇護のもとに活動し、また王在山芸術団から普天堡電子楽団に移籍したと思われる音楽家もいるなど、両楽団は切っても切れない関係にある。さらに、両楽団の作品は北朝鮮さまざまな楽団によって演奏され、現在に至るまで放送や各種行事で盛んに用いられている。このように、両楽団の音楽活動は北朝鮮の「音楽政治」に決定的な影響を及ぼした

ところが2000年代、特に中盤以降、普天堡電子楽団および王在山芸術団の活動は極めて低調な状態に陥った。普天堡電子楽団および王在山芸術団の新曲が減少するに伴い、北朝鮮のテレビ・ラジオでは2006年以降、以下のような異変が見られた。

  • 「啓蒙期歌謡」(植民地時代の歌謡曲のうち「進歩的」と認定されたもの)が突如として盛んに放送されるようになる(2006年ごろから)
  •  普天堡電子楽団のかつての作品が別の歌手によって吹き替えられ、オリジナルが放送されない(2006年ごろから)
  • 「普天堡電子楽団ソベクスグループ」「普天堡《ウナス》」「普天堡《牡丹峰》」といった名称のグループが出現し、その作品が放送される(2007年ごろから)

その後、2010年ごろに、「突破せよ最先端を(돌파하라 최첨단을)」「いつになれば来てくださりますか(언제면 오실가)」「攻撃戦だ(공격전이다)」など、普天堡電子楽団名義の(ないし普天堡電子楽団の歌手が出演する)作品がいくつか発表した。しかし、これを最後に普天堡電子楽団の動静はほぼ途絶えた。また、王在山芸術団に関しては、2011年4月〜5月と2012年1月に公演を行ったとの報道があった。だが、これを最後に、普天堡電子楽団と同じく動静はほぼ途絶えた。

2013年1月、「牡丹峰楽団」の結成経緯に関する報道のなかで「敬愛する元帥様が父なる将軍様の築かれた普天堡電子楽団を継承してわれわれ式の新しい軽音楽団を自ら組織してくださ」ったという事実が明らかになった。これは、普天堡電子楽団がすでに組織として存在しないことを示唆するものである。

そして2014年5月、北朝鮮政府は、かつて普天堡電子楽団に所属した3人の作曲家(ファン・ジニョン、ウ・ジョンヒ、アン・ジョンホ)に労力英雄称号を授与した。ただし、リンク先の記事でも述べたように、この授与は、普天堡時代やそれ以前から現在に至るまでの彼らの実績全体を評価したというより、最近の牡丹峰楽団への貢献に焦点を絞った授与であろう。とはいっても、普天堡電子楽団は間接的ながら「名誉回復」がなされた状態で芸術公演「追憶の歌」を迎えたのである。

一方、王在山芸術団が置かれていた状態はそれよりも遙かに厳しいものであった。王在山芸術団は2000年代以降、新曲の発表が低調化していったとはいえ、主に1990年代に創作・録音されたと考えられる膨大な数の器楽曲は、テレビやラジオでBGMとして盛んに用いられていた。この状況は、2013年夏頃に至るまで変わらなかったのである。

ところが2013年8月中旬を境に、王在山芸術団の作品がテレビやラジオで一切放送されなくなった。ちなみに、同年8月下旬から9月にかけ、複数の韓国メディアが「王在山芸術団の団員らが猥褻な動画を製作・販売し、その関係者が銃殺された」と報じている。報道の真偽は不明だが、いずれにせよ、王在山芸術団において何らかの重大な不祥事があったのは事実であろう


■ 「追憶の歌」における両楽団の出演形態


つぎに、本公演における両楽団の出演形態に注目したい。普天堡電子楽団に関しては、メンバー、冒頭の演奏紹介、バンドの編成、演奏曲目、さらには歌手や演奏家の衣装に至るまで、1990年代初頭の同楽団の形式を極めて忠実にリバイバルさせたものであった。25年前とは年齢も異なる楽団員たちが当時と同じような衣装を着たということであり、いささか無理があるとも言える。ただ、その無理を承知の上で、あえて当時と同じ演出で彼らを登場させることにこだわったという評価も可能だろう。

一方、王在山芸術団に関してはいささか事情が異なる。たしかに、王在山芸術団特有の軽快なアレンジはかつてのままだし、主要な出演者の衣装も1990年代のそれを彷彿とさせるものだ。ただ、楽団メンバーはかつての映像に比べて減っているように見受けられる。そして、それを補うかのごとく、楽団の背後に控えた正体不明のオーケストラが演奏に加わっていた。オーケストラを従えて演奏するこのスタイルは、かつての銀河水(ウナス)管弦楽団や、2015年7月に創設が発表された青峰楽団を連想させるものであった(なお、その後、2016年1月3日に朝鮮中央通信が「王在山芸術団青峰楽団新年慶祝音楽会」の開催を報したことで、青峰楽団が王在山芸術団の傘下にあることが判明した)。

このように、ほぼ「無傷」の状態で登場した普天堡電子楽団と比べると、王在山芸術団はやや形を変えての復活であったような印象を受ける。この事態は、前述の「不祥事」によって楽団が被った人的ダメージの現れと考えることもできるかもしれない

ただ、王在山芸術団をめぐっては明るいニュースもあった。本公演では、主要な出演者について現在の肩書きを紹介するキャプションが舞台上の大型スクリーンに表示された。そのなかに、「現在、王在山芸術団党書記」の人民芸術家・チョン・グォン(普天堡電子楽団の作曲家兼ピアニスト)をはじめ、いまの肩書きを王在山芸術団の所属として表示された者が複数いたのである。このことは、普天堡電子楽団と異なり、王在山芸術団が(傘下の青峰楽団以外は活動実態が不明であるものの)少なくとも組織としては存続していることを意味する

一方の普天堡電子楽団は、前述の通り牡丹峰楽団へ「継承」されたことが発表されており、組織としては解消したと考えられる。本公演中のキャプションにも現在の肩書きを普天堡電子楽団所属として表示された者がいなかった事実は、解消説を補強する材料であろう。本公演および同年10月の「1万人大公演」において普天堡電子楽団が出演したのも、同楽団が組織として恒久的に復活したというよりは、両公演への出演のためのアドホックな一時的「再結成」だと解するのが自然ではないだろうか。


■ リ・ジョンオとチョン・ヘヨン

つぎに、本公演の普天堡電子楽団出演部分において登場した2人の人物に焦点をあてたい。

かつて普天堡電子楽団の作曲家兼指揮者であったリ・ジョンオ (리종오)は、同楽団の黄金期を築いた中心人物であり、楽団の副団長(一説には団長)も務めた。リ・ジョンオは本公演中、普天堡電子楽団出演部分の途中から、自らの作品「かっこう」をフルートで演奏しながら登場短いスピーチを行ったのち、フルートを指揮棒に持ち替え、楽団の退場まで指揮を担当した

リ・ジョンオは普天堡電子楽団の中心的人物でありながら、近年は新たな作品も発表されず、動静が不明であった。これは、現在進行形で作品を発表している同じく普天堡電子楽団出身のファン・ジニョンらとは対照的である。

しかし今回の公演で、リ・ジョンオの健在が確認された。しかも、単に指揮者として姿を見せるにとどまらず、フルートを演奏しながら登場し、スピーチもこなしたのである。これは、リ・ジョンオ個人をあえて前面に押し出すような演出である。思うに、わたしと同じように、朝鮮の人々もリ・ジョンオの動静が気になっていたのではないだろうか。だとすれば、本公演においてリ・ジョンオにここまでのことをやらせた背景には、彼の安否に関する人々の心配、もっと言えば、巷での「悪い噂」を打ち消したいという意図があったのではないか。そんな邪推をしてしまう。

そして、もうひとつ指摘しておかなければならないのは、ステージ上のスクリーンに表示されたリ・ジョンオの代表作リストに、あの「足取り(パルコルム)」が含まれていたことだ。「パルコルム」の作曲者がリ・ジョンオであることが公式に明らかにされたのは今回が初めてではないものの、今回、このような形で再び作曲者名が明示されたことで、人々は普天堡電子楽団が「音楽政治」に刻んだ痕跡の大きさを改めて垣間見させられる結果となったのではないだろうか。

さて、本公演の圧巻とも言えるのが、歌手チョン・ヘヨン (전혜영) によるスピーチおよび「その懐を忘れられない(그 품을 못 잊어)」の独唱であった。

チョン・ヘヨンは本公演において、「口笛(휘파람、1990年創作)」をはじめとする自らの代表曲を数曲、披露。そして、それに続いてスピーチを行った。その一部を抜粋する。
 わたしは今日、この舞台でぜひとも話したいことがあります。わたしは小さいころから、歌手になることが夢でした。しかし、見ての通り背がとても低いため、専門家たちは「ステージに立つことはできない」といって、みな反対しました。

 ところが、父なる将軍様だけは、わたしの才能の芽を大切に思ってくださって、普天堡電子楽団に歌手として呼んでくださり、どんな労もいとわず、わたしを人民俳優として、「口笛歌手」として、引き立ててくださいました。

 しかしながら、1999年からおよそ5年間、悲しいことに、わたしは声帯麻痺のため歌うことはおろか言葉もまともに話すことができませんでした。この事実の報告を受けられた父なる将軍様は、深く心を痛められ、チョン・ヘヨンの声を必ずや治そう、大金を投じてでも人民の記憶のなかに残っている「口笛歌手」の声を取り戻そうとおっしゃり、世界最上級の医療チームを用意してくださいました。そして、5年が経ったときには、わたしは再び歌を思う存分、歌えるようにしてくださったのです。

 われらの将軍様のような方が世の中のどこにいらっしゃいますでしょうか。
チョン・ヘヨンが目をうるませながら上記の一節の述べ終えたころには、それまで和やかに公演を楽しんでいた観客席の雰囲気も一変。映像には涙を拭う者の姿が多数、見られた。

その後、チョン・ヘヨンは「きょうは、敬愛する元帥様が親しく用意してくださったこの意義深い舞台において、この歌を再び歌ってみます」と述べてスピーチをしめくくり、「その懐を忘れられない」を絶唱したのである。実際の歌唱の流れに沿って「その懐を忘れられない」の歌詞は紹介すれば、次のようになる。
(1番)
遠くへ行っても 遠くへ行っても わが胸のなかには
忘れられず いとしい 忘れられず いとしい 懐がある
わたしを育て 引き立ててくださった ありがたい恩人
夢のなかでも呼び慕って 眠れなかった
(2番…歌唱されず)
(間奏)
ああ ああ ああ ああ
(3番)
その懐を離れれば その懐を離れれば わが人生はなく
こころは いつでも こころはいつでも ともにあるのだ
帰ってきて 抱きしめられたとき 涙が先に立って
遠慮もせず お裾を お濡らしした
ああ ああ わたしのお父さん
いとしいその懐を わたしは忘れられない
「その懐を忘れられない」自体は、先述の通り1992年創作の曲であり、チョン・ヘヨンの声帯麻痺に関するエピソードと直接の関係はない。ただ、上記のスピーチを念頭に置いたうえでこの歌詞を噛みしめると、この歌はまた違った印象を見せる。特に、間奏部分でチョン・ヘヨンは、総書記の配慮により回復したという声帯をあらん限りの力で振るわせ、歌声を張り上げた。その姿に、多くの観客たちはいよいよ涙腺が限界に達し、頬を伝う熱いものを気にもとめず彼女の歌唱に聞き入った。



チョン・ヘヨンの声帯麻痺に関する「告白」は、単なるありがちな「感動的な逸話」の紹介という枠にとどまらず、普天堡電子楽団およびそのメンバーにたいする金正日総書記の「ただならぬ寵愛」を示唆する効果があったように思う。さらに、そこからチョン・ヘヨンが「敬愛する元帥様が親しく用意してくださったこの意義深い舞台において…」と話をつなげたことから、かつてと同じく現在も普天堡電子楽団は指導者から特別視されており、今回も金正恩第1書記の配慮によって「復活」が実現した——という筋書きが見て取れる


■ 朝鮮音楽史のなかの「追憶の歌」

「追憶の歌」の開幕から1年を経たいま、ようやく本サイトで同公演を取り上げることができた。「遅い」と感じる方も少なくないだろうが、見方を変えれば、1年間「寝かせた」ことで、たとえば2015年10月に行われた「1万人大公演」との異同や、王在山芸術団と青峰楽団の関係が明らかになったことなど、公演直後の段階では得られなかった視点からの分析を行うことが可能となったとも言える。せっかくなので、そういった観点を踏まえて、芸術公演「追憶の歌」を朝鮮音楽史のなかでどのように位置づけることができるか、改めて整理してみたい。

本公演の意義は、金正恩政権が「金正日時代の音楽」の総括を行い、その評価を表明したことにあったとわたしは考える。

もちろん、本公演における普天堡電子楽団と王在山芸術団の「復活」が、あまりにも「何事もなかったかのような」復活であったことは指摘せざるをえない。'00年代後半以降の両楽団の「沈滞期」や、(王在山芸術団と似たように)2013年のある時期を境に公式メディアからほとんど姿を消した銀河水管弦楽団の処遇についてなど、21世紀に入ってからの朝鮮音楽史には依然として「謎」が多いのである。そういった「謎」については、「追憶の歌」から1年を経たいまなお「謎」のままだ。

しかし、芸術公演「追憶の歌」を通じて金正恩政権が普天堡電子楽団と王在山芸術団への肯定的評価を鮮明にしたことで、そういった「謎」が解き明かされていくための最低限の条件が整ったとも見ることができる。しかも、北朝鮮の公式文献が「ある時期にある分野が沈滞していたが、領導者の的確な指導により復活を遂げた」というような歴史解釈を表明している例は少なくないし、解放以後の朝鮮音楽史に関してもその例外ではない。それゆえ、前述の「謎」についても、今後、何らかの形で明らかになっていく可能性は決して低くないのではないか。わたしはそう考えるのである。

さて、たしかにこの「謎」は、朝鮮音楽愛好家としては大いに気になる問題ではある。ただ、そうはいっても、仮にそれが明らかになったとして、朝鮮音楽史全体からすれば脇道的なエピソードに留まるのではないかと思う。それよりも、ここで注目すべきは、本公演が(「謎」を脇に置いたままではあるが)「金正日時代の音楽」と「金正恩時代の音楽」との連続性を明確にする役割を果たしたことだ。

金正日政権の最末期、普天堡電子楽団と王在山芸術団の活動が低調な状況のなかで「金正恩時代の音楽」は船出した。それゆえ、牡丹峰楽団と普天堡電子楽団の関連を明らかにする報道などがあったとはいえ、「金正日時代の音楽」と「金正恩時代の音楽」との連続性は、全体的に見ればこれまで不明瞭であった。しかし、金正恩政権は、芸術公演「追憶の歌」を通して「金正日時代の音楽」を積極的かつ肯定的に評価することで、いわばその状況に終止符を打った。本公演およびその後の様々な動きを通し、「金正恩時代の音楽」が「金正日時代の音楽」の莫大の遺産の上に成り立っているという事実が、これまでになく明白になったのである。

このように整理してみると、芸術公演「追憶の歌」は、ただ過去の音楽を「追憶」するだけの公演ではなかったことがわかる。芸術公演「追憶の歌」は、朝鮮音楽の「過去」から「現在」へ、そして「未来」へと、橋渡しの役割を演じたのだ。

 
 
(^q^)