2019年2月2日土曜日

【書評】三村光弘『現代朝鮮経済:挫折と再生への歩み』(日本評論社、2017年)


北朝鮮経済に関する日本語文献は多くない。アカデミアの怠慢と言ってしまえばそれまでだが、北朝鮮研究のなかでも経済分野が「研究しづらい」うえに「研究する価値が相対的に低い」対象であったことは否めないだろう。

というのも、経済研究の基礎となるのは数量データであるはずなのに、北朝鮮についてはそれが満足に利用できない。北朝鮮政府は細かい数字を公にしたがらないし、国際機関や韓国政府が発表する各種統計もあくまで外部からの推計であって必ずしも十分な精度を備えていないのである。しかも、根本的な問題として北朝鮮において経済は政治の従属変数にすぎなかった。それゆえ、「上位互換」たる政治のほうに関心が集まる状況が存在したことは必然とも言える。

しかし、かかる状況のもとでも一部の研究者たちはこの分野に果敢に挑んできた。その成果として今村弘子は『北朝鮮「虚構の経済」』(集英社新書、2005年)を上梓。新書でありながら、これまで北朝鮮経済に関する数少ない総合的な文献のひとつとして重宝されてきた。また、近年では木村光彦が自らの研究の集大成として『北朝鮮経済史1910–60』(知泉書館、2016年)を著した。小ぶりの本であり、書名が示す通り1960年までしか論じられていないが、解放前後を通した断絶と連続の観点を取り入れた興味深い労作だ。

本書も当然、「先烈」たちが築いた先行研究の上に成り立つ。それでも異例な点がないわけではない。そもそも著者は経済学者ではなくアジア法プロパーである。大阪外国語大学(当時)で朝鮮語を学んだのち、大阪大学大学院では西村幸次郎に師事。現在は公益財団法人環日本海経済研究所(ERINA)で北朝鮮の対外経済法を研究する。

大学院時代、西村は著者を大内憲昭に紹介(大内は『法律からみた北朝鮮の社会』などで知られる北朝鮮法専門家だ)。大内からは朝鮮社会科学者協会に紹介された。以来、20年間にわたって平壌の学界との交流を維持。現地の研究者らと幾度となく酒の席を重ね、北朝鮮を訪れた日本の研究者のなかで「累計でおそらく筆者が一番酒をたくさん飲んだ」(p.vi)と自負する。

著者は本書の狙いを「学術書として最低限の水準を保ちながらも、『大ざっぱに言えばこんな感じである』という『感覚』を読者に伝えること」(同)だとする。こんなことを豪語できるのも、現地で酌み交わした杯の数と、その酒盛りのなかで「時には口論しながらも」(同)培った北朝鮮経済に関する「感覚」への自信があるからだろう。

もちろん、「感覚」を重視する姿勢は、裏返せば「大ざっぱで精緻な分析に欠ける」(同)ことを意味しかねないのは本書も認めるところだ。それでも本書が「感覚」だけで書かれたものでないことは明白である。先行研究を網羅して、数量データを精査する。法令・制度の変遷を執拗に追う。あくまでそれらの基礎の上に議論は展開される。「感覚」的な要素は、実質的には通奏低音として議論の方向性に影響を与えているのだろうが、形式的にはもっぱら脚注や各章末の「おわりに」に押し込められている。

もし朝鮮半島の核問題が解決に向かい、経済を制約する国際政治的な条件が緩和されれば、北朝鮮経済は従属変数から脱していくのではないか––。本書はこう期待を込めて終わる。仮にそうなれば北朝鮮経済研究の意義は増すだろうし、数量データへのアクセシビリティも改善する可能性がある。本書を批判的に継承するような、「感覚」的すぎない優れた実証研究が出てきてもおかしくない。そんな日が来れば、ようやく著者の肝臓も休まることだろう。

 
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