2018年2月16日金曜日

金正日将軍の歌 (김정일장군의 노래)

永生不滅の革命頌歌 (영생불멸의 혁명송가)
金正日将軍の歌
김정일장군의 노래
1997年創作, シン・ウノ(신운호)作詞, ソル・ミョンスン(설명순)作曲
白頭山に連なる 錦繍江山三千里
将軍様を高く戴いて 歓呼の声どよめく
太陽の偉業輝かす 人民の領導者
万歳 万歳 金正日将軍

大地の花々も その愛を伝え
東西の青き海も その功績を歌う
チュチェの楽園築く 幸福の創造者
万歳 万歳 金正日将軍

鋼鉄の胆力で 社会主義守り
わが祖国の名を 世界に轟かす
自主の旗かざす 正義の守護者
万歳 万歳 金正日将軍
백두산 줄기내려 금수강산 삼천리
장군님 높이 모신 환호성 울려가네
태양의 위업 빛내신 인민의 령도자
만세 만세 김정일장군

대지의 천만꽃도 그 사랑을 전하고
동서해 푸른 물도 그 업적 노래하네
주체의 락원 가꾸신 행복의 창조자
만세 만세 김정일장군

강철의 담력으로 사회주의 지키여
내 나라 내 조국을 세상에 떨치시네
자주의 기치 높이 든 정의의 수호자
만세 만세 김정일장군
■動画



■解説

解放直後の「金日成将軍の歌」から約半世紀、「金正日将軍の歌」は2つめの「永世不滅の革命頌歌」として彗星のごとく現れた。ここでは、いくつかのテーマに分けてこの歌の性格を考えてみたい。

1. 歌詞について
「金正日将軍の歌」の歌詞はいっさいの無駄を排し、あくまでミニマルに仕上がっている。その特徴を浮き彫りにするには、もう一方の「永生不滅の革命頌歌」である「金日成将軍の歌」(1947年)の歌詞との異同という補助線を導入するのが良いだろう(「金日成将軍の歌」の歌詞の特徴についてはそちらの解説の冒頭で触れておいたのでお目通しいただきたい)。

両作品がどれだけ違うのか、それぞれの歌詞を見比べてみたい。左が「金日成将軍の歌」で右が「金正日将軍の歌」である。
長白山 줄기줄기 피어린 자욱
鴨綠江 굽이굽이 피어린 자욱
오늘도 自由朝鮮 꽃다발우에
歷歷히 비쳐 주는 거룩한 자욱
아 그 이름도 그리운 우리의 將軍
아 그 이름도 빛나는 金日成將軍

白頭山줄기 내려 錦繡江山 三千里
將軍님 높이 모신 歡呼聲 울려 가네
太陽의 偉業 빛내신 人民의 領導者
萬歲 萬歲 金正日將軍

滿洲벌 눈바람아 이야기하라
密林의 긴긴 밤아 이야기하라
萬古의 빨찌산이 누구인가를
絶世의 愛國者가 누구인가를
아 그 이름도 그리운 우리의 將軍
아 그 이름도 빛나는 金日成將軍

大地의 千萬 꽃도 그 사랑을 傳하고
東西海 푸른 물도 그 業績 노래하네
主體의 樂園 가꾸신 幸福의 創造者
萬歲 萬歲 金正日將軍

勞動者大衆에겐 解放의 恩人
民主의 새 朝鮮엔 偉大한 太陽
二十個政綱우에 모두다 뭉쳐
北朝鮮 坊坊曲曲 새봄이 오다
아 그 이름도 그리운 우리의 將軍
아 그 이름도 빛나는 金日成將軍
鋼鐵의 膽力으로 社會主義 지키여
내 나라 내 祖國을 世上에 떨치시네
自主의 旗幟 높이 든 正義의 守護者
萬歲 萬歲 金正日將軍

あえて両作品の歌詞を漢字混用で並べてみたが、その意図は一目瞭然であろう。「金日成将軍の歌」と比べ、「金正日将軍の歌」は凄まじいまでに漢語の比率が高いのである。冒頭から怒涛のごとく漢語が押し寄せつづけ、しかも無駄なものは何ひとつない。まったくどこにも隙のない歌詞なのである。

作詞者がこの歌詞の筆をとるにあたっては「光明星讃歌(광명성찬가)」を意識しなかったはずがない。これは金正日総書記の生誕50周年(1992年2月16日)に際して金日成主席が詠んだ詩である。金日成主席はこの詩を朝鮮語と漢文でそれぞれしたためているが、第1節の「환호성(歡呼聲)」などは明らかにその漢文のほうから借用した表現であろう。「金正日将軍の歌」が漢語を多用している背景には、「光明星讃歌」へのオマージュという意味合いもありそうだ。


2. 「金正日将軍の歌」の発表

「金正日将軍の歌」が初めて公式に発表されたのは1997年4月9日付の『労働新聞』においてである。この日付は金正日総書記の国防委員会委員長就任4周年にあたり、同紙1面のトップにはそれに関連する社説記事が掲載されていた。
「金正日将軍の歌」の歌詞・楽譜は、その右下に掲載された。歌の解説といった関連記事はいっさい掲載されていない。また、9日付『労働新聞』での発表を受け、朝鮮中央放送および平壌放送も同日中に「金正日将軍の歌」の発表を報じており、その際にはこの歌が「不滅の革命頌歌」であるとして言及している(ラヂオプレス『北朝鮮政策動向』)。

一方、「金正日将軍の歌」の意義や役割を解説する役割を演じたのは『民主朝鮮』である。同紙は翌10日付の紙面から連日にわたって関連記事を掲載しつづけた。同日付の『民主朝鮮』は、1面の上半分が「金正日将軍の歌」の歌詞・楽譜で埋められ、その下半分の大部分も「信念から歌う太陽賛歌(신념으로 부르는 태양찬가)」と題する関連記事によって占められている。

同記事は「金正日将軍の歌」の発表に付随する公式な解説文とみなしうるものだが、歌詞の内容や曲の音楽的特徴、あるいは歌が創作された経緯などに関する具体的な説明は一切ない。むしろ、金正日総書記の偉大性を再確認することに主眼がおかれ、「金正日将軍の歌」の出現を金正日総書記にたいする人々の敬慕の自然な発露であるとして自明視する態度をとっている。また、同記事は「金正日将軍の歌」が「いまやわが人民のなかで広く歌われ」ているとしており、公式メディアでの発表に先立って一定程度の普及が行われていたことを示唆している。


3. 「金正日将軍の歌」をめぐる逸話
1997年4月に「金正日将軍の歌」が発表されたのち、同作品の発表・普及経緯に関するいくつかの「逸話(일화)」が明らかにされた。雑誌『朝鮮芸術(조선예술)』2005年4月号に掲載された逸話によれば、「金正日将軍の歌」の創作直前、北朝鮮の軍民のあいだには金正日総書記を称揚する頌歌の創作を熱望する声が高まっていた。そして人々はその思いを手紙にしたため、朝鮮人民軍協奏団(조선인민군협주단)の創作家たちへ送った。その数は「数万通」にも上ったとされる。以下は、そんな手紙の1通の一部であり、祖国防衛の最前線に立つ将兵たちが綴ったものだという。

「…父なる首領様が親しくお書きになられた『光明星賛歌(광명성찬가)』を詠ずるたびに、われわれ人民軍将兵たちの胸のうちには敬愛する最高司令官金正日将軍様への頌歌が最高に浄化されて胎動します。われわれは、創作家の同志たちが全人民軍将兵たちのこのような切々たる念願を込めて、絶世の偉人であらせられる敬愛する将軍様を高く称賛する世界的な革命頌歌を創作してくれることを心から願います。」

こうした全国の人びとの思いに突き動かされた朝鮮人民軍協奏団の創作家たちは、「あらゆる知恵と情熱を捧げて」、ついに永生不滅の革命頌歌「金正日将軍の歌」を完成させる。この歌は「チュチェ86(1997)年2月の慶祝公演の舞台」において初演された。「2月の慶祝公演」は金正日総書記の誕生日(2月16日)に前後して行われた行事であったと解される。その後、金正日総書記を国防委員会委員長に「推戴」して4周年を迎えた同年4月9日、歌は「党報(당보)」すなわち『労働新聞』の1面に「丁重に掲載された」。

また、金正日総書記の死去から約1年2ヶ月後、雑誌『朝鮮文学(조선문학)』2013年3月号に「金正日将軍の歌」の創作・発表経緯をめぐる逸話が掲載された 。ここでは、歌の創作から『労働新聞』での掲載に至るまでの経緯をより詳細に描写している。

それによると、「金正日将軍の歌」が1997年2月の金正日総書記誕生日を前にして完成されると、金正日総書記自身にたいして報告された。しかし、「限りなく謙虚であらせられる偉大な将軍様におかれては」、これを承認しようとしなかった。それでも創作家たちは、金正日総書記の誕生日を祝う公演において、その最初の曲目として「金正日将軍の歌」を選んだ。公演では開幕するやいなや「金正日将軍の歌」の誕生を知らせる字幕が表示された。そして「あれほど待ちに待った革命頌歌を耳にすることとなった観覧席には、轟くような拍手が炸裂して、感激と歓喜の波濤が力づよく波打つなか不滅の革命頌歌『金正日将軍の歌』が場内に鳴りわたった」。

この初演ののちも金正日総書記は歌の普及を認めない姿勢を崩さず、それゆえ出版物に掲載されることもなかった。逸話は、金正日総書記のこのような態度を「革命頌歌『朝鮮の星』の普及も、解放後の『金日成将軍の歌』の創作と普及も厳しく禁じられた父なる首領様」すなわち金日成のそれと重ねあわせる。しかし、こうしているあいだにも「歌は新聞や放送ではなく、熱い心と心を伝って人民軍将兵たちのあいだに広く知れわたった」。

そして、同年3月9日、この状況にようやく転機が訪れたという。この日、当時の朝鮮人民軍協奏団功勲合唱団(조선인민군협주단 공훈합창단)は金正日総書記自身の前で「金正日将軍の歌」を披露する機会に恵まれた。そして、公演が終わったのち、金正日総書記は朝鮮人民軍協奏団の関係者らと面会。「『金正日将軍の歌』を聞き、多くのことを考えさせられた」としたうえで、自身が引き留めたにも関わらずその日の演目に同作品を含めたことについて「人民軍軍人たちが最高司令官をいかに信頼し、慕っているかよくわかった」などと語った 。関係者らは、これを金正日総書記からの「最上最大の信頼と評価」だと解釈したという。これにつづいて、逸話では同年4月9日付『労働新聞』への歌の掲載が語られる。

かつて鐸木昌之が「神話が一度〈語られる〉と、すなわち開示されると、たちまちそれは抗すべからざる真理となる」というエリアーデの言を援用しながら論じたように(『北朝鮮:社会主義と伝統の共鳴』)、指導者一族に関連する体制神話はそれが神話である以上、その真偽をあげつらうことは無意味に近い。この歌に関する様々な逸話についても、逸話という媒体を通してこのような歴史解釈の表明がなされていること自体に意味を見出すべきであろう。

4. まとめ
記事をまとめるにあたり、もう一度「金日成将軍の歌」との異同を補助線をとして導入し、この歌の性格を考えてみたい。というのも、両作品は「永世不滅の革命頌歌」という同じ最高称号を共有し、また各種媒体や式典でもワンセットで扱われることが多い。しかし、だからといって両作品のあいたに横たわるさまざまな差異を見逃してはならないと考えるからだ。

本解説の冒頭で、「金正日将軍の歌」が彗星のごとく現れたと書いた。彗星というのは、何かが突然に現れたことを言いたいとき比喩的に持ち出される。しかし、彗星は、それが「現れる」までに長い宇宙の旅を経て来ていることもまた周知のとおりである。

「金正日将軍の歌」もそうである。たしかに1997年4月9日付の『労働新聞』における発表は突然だった。しかし、当時の関連報道が示唆するように実際はそれより早く一定程度の普及が行われていたようだし、後年に公表された「逸話」はその解釈と符合する内容になっている。

「金正日将軍の歌」には「金日成将軍の歌」のような青臭さもなければ、聞く者を特定のイメージへと誘うような仕掛けもない。いや、そもそもその必要がないのだ。「金日成将軍の歌」 が特定のイメージを共有させることを目的に作られた歌だとするならば、「金正日将軍の歌」 は特定のイメージが共有されていることを前提に作られた歌だと言える。

「金日成将軍の歌」以来の半世紀のあいだには、さまざまなレトリックが考案され、さまざまな伝統が発明された。この半世紀こそが、彗星の経てきた旅の長さにほかならない。解放直後の政治的混乱のなかで創作された「金日成将軍の歌」と違い、「金正日将軍の歌」はイデオロギー的に老熟しきった体制の頌歌なのである。すべての構成員によって同じ文脈が共有されているがゆえ、特定のイメージへと誘うような仕掛けも必要なければ、指導者の政策を親切に説明するような箇所も必要ない。ただ美しく、ただ荘厳であればよいのだ。「金正日将軍の歌」はそういう歌だと私は考える。




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2018/07/21 日本語訳の誤字を修正
2018/10/23 解説を追記
 
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