愛国歌
애국가 | ||
1947年創作, 朴世永作詞, 金元均作曲 | ||
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■音源
■解説
朝鮮民主主義人民共和国の国歌。1947年に「愛国歌」として選定され、1948年9月9日の朝鮮民主主人民共和国建国にともなって同国の国歌になった。ただし、この「愛国歌」が国歌であると憲法に明文化されたのは、1992年のようである。
金日成は1946年秋に「愛国歌」の創作を提案したとされる。その後、1947年、金日成は談話「愛国歌と人民軍行進曲を創作することについて」を発表(「革命音楽館」様がその抄訳を掲載している)。これを受け、ソ連軍政下の北朝鮮当局は愛国歌を制定すべく、作品を公募した。このとき最終審査に残った2曲は、金元均(キム・ウォンギュン)の作品と、そして李冕相の作品だった。金日成の臨席のもと最終試聴会が執り行われ、金日成は金元均のほうに軍配を上げたのである。かくして、金元均の作品が愛国歌として選定された。一方、このとき選ばれなかった李冕相の作品は「輝く祖国 (빛나는 조국)」と名付けられ、こちらも広く使用されている。
「愛国歌」の歌詞は、文字通り純粋な愛国歌のそれである。金日成の名は登場しないし、「人民」を除けば社会主義を連想させる語彙すら用いられていない。これは、同時期に制定されたソビエト連邦国歌(1944年)やモンゴル人民共和国国歌(1950年)と対照的である(当時、ソ連の影響下にあったという点ではモンゴルも北朝鮮も同じである)。
なぜ「愛国歌」はこのような歌詞になったのか。その理由はわからない。しかし、「愛国歌」創作・制定の背景として、以下の2つの事実は特筆に値するだろう。
- 当時のソ連軍占領当局が、マルクス主義的な色彩を前面に出さず、ナショナリズムを積極的に利用する政策をとったこと。解放直後、朝鮮における共産主義勢力の基盤はきわめて脆弱で、急激な社会主義化は民衆の反感を買う可能性が高かった。そのため占領当局は、土地改革や労働法令制定など進歩的な政策を実施したものの、これらを「民族の英雄である金日成将軍がもたらしてくれたもの」として宣伝した。
- 「金日成将軍の歌」がすでに存在していたこと。1で述べた政策の一環として、1946年夏に「金日成将軍の歌」が制作・発表され、1947年の時点ではすでに広く民衆に普及していたとみられる。
北朝鮮においては現在、「金日成将軍の歌」と「金正日将軍の歌」の2曲が「永生不滅の革命頌歌」と称され、「愛国歌」を含むほかの歌曲とは違う特別な扱いを受けている。とはいえ、国歌である「愛国歌」が二番手、三番手の地位に甘んじるという特殊な状況は、いまに始まったことではない。「愛国歌」が創作・制定された1947の時点で、そうなることを宿命づけられていたと言える。