帰国同胞歓迎曲
귀곡동포환영곡 | ||
1959年創作, 朴世永作詞, 金元均作曲 | ||
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2014年12月15日月曜日
帰国同胞歓迎曲 (귀곡동포환영곡)
帰国事業についての歌。作詞・作曲はあの「愛国歌」の同じコンビです。
■動画
2014年11月25日火曜日
魅惑 (매혹)
魅惑
매혹 | ||
1993年創作, 전동우作詞, 황진영作曲 | ||
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2014年11月9日日曜日
烽火山のふもと (봉화산기슭)
烽火山のふもと
봉화산기슭 | ||
1967年創作, 안창만作詞, 리영숙作曲 | ||
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2015/03/25 (*´艸`)
ラベル:
1967年創作
,
アン・チャンマン作詞
,
リ・ヨンスク作曲
2014年11月7日金曜日
故郷の家の白樺 (고향집의 봇나무)
故郷の家の白樺
고향집의 봇나무 | ||
1992年創作, 김경기作詞, 박진국作曲 | ||
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2014年9月9日火曜日
愛国歌 (애국가)
愛国歌
애국가 | ||
1947年創作, 朴世永作詞, 金元均作曲 | ||
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■音源
■解説
朝鮮民主主義人民共和国の国歌。1947年に「愛国歌」として選定され、1948年9月9日の朝鮮民主主人民共和国建国にともなって同国の国歌になった。ただし、この「愛国歌」が国歌であると憲法に明文化されたのは、1992年のようである。
金日成は1946年秋に「愛国歌」の創作を提案したとされる。その後、1947年、金日成は談話「愛国歌と人民軍行進曲を創作することについて」を発表(「革命音楽館」様がその抄訳を掲載している)。これを受け、ソ連軍政下の北朝鮮当局は愛国歌を制定すべく、作品を公募した。このとき最終審査に残った2曲は、金元均(キム・ウォンギュン)の作品と、そして李冕相の作品だった。金日成の臨席のもと最終試聴会が執り行われ、金日成は金元均のほうに軍配を上げたのである。かくして、金元均の作品が愛国歌として選定された。一方、このとき選ばれなかった李冕相の作品は「輝く祖国 (빛나는 조국)」と名付けられ、こちらも広く使用されている。
「愛国歌」の歌詞は、文字通り純粋な愛国歌のそれである。金日成の名は登場しないし、「人民」を除けば社会主義を連想させる語彙すら用いられていない。これは、同時期に制定されたソビエト連邦国歌(1944年)やモンゴル人民共和国国歌(1950年)と対照的である(当時、ソ連の影響下にあったという点ではモンゴルも北朝鮮も同じである)。
なぜ「愛国歌」はこのような歌詞になったのか。その理由はわからない。しかし、「愛国歌」創作・制定の背景として、以下の2つの事実は特筆に値するだろう。
- 当時のソ連軍占領当局が、マルクス主義的な色彩を前面に出さず、ナショナリズムを積極的に利用する政策をとったこと。解放直後、朝鮮における共産主義勢力の基盤はきわめて脆弱で、急激な社会主義化は民衆の反感を買う可能性が高かった。そのため占領当局は、土地改革や労働法令制定など進歩的な政策を実施したものの、これらを「民族の英雄である金日成将軍がもたらしてくれたもの」として宣伝した。
- 「金日成将軍の歌」がすでに存在していたこと。1で述べた政策の一環として、1946年夏に「金日成将軍の歌」が制作・発表され、1947年の時点ではすでに広く民衆に普及していたとみられる。
北朝鮮においては現在、「金日成将軍の歌」と「金正日将軍の歌」の2曲が「永生不滅の革命頌歌」と称され、「愛国歌」を含むほかの歌曲とは違う特別な扱いを受けている。とはいえ、国歌である「愛国歌」が二番手、三番手の地位に甘んじるという特殊な状況は、いまに始まったことではない。「愛国歌」が創作・制定された1947の時点で、そうなることを宿命づけられていたと言える。
2014年9月2日火曜日
赤旗号 わが機関車は走る (《붉은기》호 나의 차는 달린다)
芸術映画「忠誠の汽笛 (충성의 기적소리)」より。
「삼일포2.0」所収の楽譜ではこのような歌詞になっていますが、下の録音を聞くと2番の1回目の「《붉은기》호 나의 차는」は「사랑하는 나의 차는」と聞こえます。
■動画
都合により音質を落としてあります。
赤旗号 わが機関車は走る
《붉은기》호 나의 차는 달린다 | ||
1970年創作, 作詞:集団, 作曲:김린욱 | ||
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■動画
都合により音質を落としてあります。
2014年6月10日火曜日
労働党はわれらの導き手 (로동당은 우리의 향도자)
労働党はわれらの導き手
로동당은 우리의 향도자 | ||
1957年創作, 정서촌作詞, 김길학作曲 | ||
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2014年5月18日日曜日
【報道】ファン・ジニョンら作曲家3名、労力英雄称号を受称
共和国最高人民会議常任委員会は4月12日、政令を制定し、ファン・ジニョン、ウ・ジョンヒ、アン・ジョンホの3名の作曲家に労力英雄称号を授与した。牡丹峰楽団での創作活動を評価しての授与とみられる。
政令の全文(和訳)は次のとおり。
今回、新たに3人が受称したので、すでに亡くなった人も含めて合計6人ということになる。そして、今回の3人はいずれも過去に普天堡電子楽団に所属していた作曲家である。つまり、「永生不滅の革命頌歌」とされる2曲の作曲者2人を除く4人がいずれも普天堡電子楽団出身者ということになる。
もちろん、称号が授与されるか否かは対象者の実力や実績だけによって決まるものではない。そのときどきの政策や政治情勢の影響も少なくないだろう。また、全体的に、朝鮮では昔より称号や勲章の授与基準が緩くなっていると言われる。朝鮮音楽の黎明期に大きく貢献した李冕相や金玉成も、英雄称号は受称していない。
それゆえ、ファン・ジニョンだけならともかく、ウ・ジョンヒとアン・ジョンホにまで同時に英雄称号が授与されたことについては、「称号の安売りではないか」という指摘もできる。しかも、ファン・ジニョンとアン・ジョンホは「人民芸術家」の称号を持つが、ウ・ジョンヒは「功勲芸術家」。つまり、ウ・ジョンヒは「人民芸術家」称号を授与される前に「労力英雄」称号を受称したわけだ。
これらのことを勘案すると、3人にたいする今回の称号授与は、普天堡時代やそれ以前から現在に至るまでの実績全体が評価されたというより、最近の牡丹峰楽団への貢献に焦点を絞った授与なのではないか、という推測が成り立つ。つまり、金正恩時代における音楽芸術の模範として牡丹峰楽団を持ち上げるキャンペーンの一環としての授与なのだろう。
とはいえ、朝鮮の政権が(政策への貢献も含めて)最も高く評価した作曲家がこの6人であることは、形式的には間違いない。そして、すでに述べたように、「永生不滅の革命頌歌」の2人を除く4人が普天堡電子楽団出身者。今回の3人が英雄称号を授与された直接のきっかけは普天堡ではなく牡丹峰楽団での活動であるといっても、牡丹峰楽団が普天堡を継承する存在であることはすでに明らかにされている。そう考えると、普天堡電子楽団が朝鮮の「音楽政治」史に残した影響が、いかに決定的なものであったかということを再確認されられる。
(ところで、先日の第9次全国芸術人大会では牡丹峰楽団に関連して注目すべき発言がいろいろあったようですね。ただまだ情報がまとまっていないので、とりあえず保留!)
左からファン・ジニョン、ウ・ジョンヒ、アン・ジョンホ |
「労力英雄」は「共和国英雄」に次いで権威のある称号。これまで共和国で英雄称号が授与された作曲家は、わたしが確認している限り次の3人である(いずれも労力英雄)。朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会政令
第7号 チュチェ103(2014年)4月12日
ファン・ジニョン、ウ・ジョンヒ、アン・ジョンホ同志に
朝鮮民主主義人民共和国労力英雄称号を授与することについて
朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会は、わが党の主体的な音楽芸術思想で固く武装し、革命的・先進的な創作気風と情熱を高く発揮して、偉大な金正恩時代の精神が脈打つ思想芸術性が強く、人民たちの現実的な感情を込めた名曲を数多く創作することによって千万軍民を社会主義守護戦と強盛国家建設の終局的勝利のための闘争に力強く鼓舞・激励することに大きく寄与した、ファン・ジニョン、ウ・ジョンヒ、アン・ジョンホ同志に、民族最大の名節である太陽節を控え、朝鮮民主主義人民共和国労力英雄称号ならびに金メダル(鎌と鎚)および国旗勲章第1級を授ける。
朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会
平壌
- キム・ウォンギュン(金元均)…「金日成将軍の歌」「愛国歌」の作曲者
- ソル・ミョンスン …「金正日将軍の歌」の作曲者
- リ・ジョンオ …普天堡電子楽団で作曲活動、同楽団副団長(団長説もあり)
今回、新たに3人が受称したので、すでに亡くなった人も含めて合計6人ということになる。そして、今回の3人はいずれも過去に普天堡電子楽団に所属していた作曲家である。つまり、「永生不滅の革命頌歌」とされる2曲の作曲者2人を除く4人がいずれも普天堡電子楽団出身者ということになる。
もちろん、称号が授与されるか否かは対象者の実力や実績だけによって決まるものではない。そのときどきの政策や政治情勢の影響も少なくないだろう。また、全体的に、朝鮮では昔より称号や勲章の授与基準が緩くなっていると言われる。朝鮮音楽の黎明期に大きく貢献した李冕相や金玉成も、英雄称号は受称していない。
それゆえ、ファン・ジニョンだけならともかく、ウ・ジョンヒとアン・ジョンホにまで同時に英雄称号が授与されたことについては、「称号の安売りではないか」という指摘もできる。しかも、ファン・ジニョンとアン・ジョンホは「人民芸術家」の称号を持つが、ウ・ジョンヒは「功勲芸術家」。つまり、ウ・ジョンヒは「人民芸術家」称号を授与される前に「労力英雄」称号を受称したわけだ。
これらのことを勘案すると、3人にたいする今回の称号授与は、普天堡時代やそれ以前から現在に至るまでの実績全体が評価されたというより、最近の牡丹峰楽団への貢献に焦点を絞った授与なのではないか、という推測が成り立つ。つまり、金正恩時代における音楽芸術の模範として牡丹峰楽団を持ち上げるキャンペーンの一環としての授与なのだろう。
とはいえ、朝鮮の政権が(政策への貢献も含めて)最も高く評価した作曲家がこの6人であることは、形式的には間違いない。そして、すでに述べたように、「永生不滅の革命頌歌」の2人を除く4人が普天堡電子楽団出身者。今回の3人が英雄称号を授与された直接のきっかけは普天堡ではなく牡丹峰楽団での活動であるといっても、牡丹峰楽団が普天堡を継承する存在であることはすでに明らかにされている。そう考えると、普天堡電子楽団が朝鮮の「音楽政治」史に残した影響が、いかに決定的なものであったかということを再確認されられる。
(ところで、先日の第9次全国芸術人大会では牡丹峰楽団に関連して注目すべき発言がいろいろあったようですね。ただまだ情報がまとまっていないので、とりあえず保留!)
2014年4月16日水曜日
タンスメこと「一気に (단숨에)」
だいぶイマサラ感がありますが、タンスメを訳しました。
■歌詞について
펄펄나는 - 朝鮮音楽だと《펄펄》は「ひらひら(旗などがなびく様子)」の意味で用いる場合が多いですが、それ以外にも「ぐらぐらと(湯が煮えたぎる様子)」や「かっかと(熱をもっている様子)」の意味もあるそうです。
■解説
ところで、牡丹峰の「タンスメ」はbondの "Viva!" との類似性が指摘されています。bondは2000年にイギリスで結成されたバンドで、女性4人によるストリングカルテットです(ただ、牡丹峰と違ってbondはアコースティックな弦楽器で演奏することもあるようです)。リンク先のライブ映像を見る限り、「タンスメ」が、そして牡丹峰楽団のコンセプト自体がbondから大きな示唆を受けていることは間違いないように思います。ざっくり言うと、普天堡とbondを足して2で割ったのが牡丹峰って感じですかね。ただ、これをパクりだとかなんとか言うつもりは毛頭なく、むしろこんなものまでチェックしてる朝鮮の音楽関係者はすごいなーっていう話です。
■動画
一気に
단숨에 | ||
2009年創作, 윤두근作詞, 황진영作曲 | ||
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■歌詞について
펄펄나는 - 朝鮮音楽だと《펄펄》は「ひらひら(旗などがなびく様子)」の意味で用いる場合が多いですが、それ以外にも「ぐらぐらと(湯が煮えたぎる様子)」や「かっかと(熱をもっている様子)」の意味もあるそうです。
■解説
音楽において主体性を確立するからといって、外国のものを頭から無視し、排斥してはならない。わが国の音楽を早く発展させるためには、外国の音楽からもすぐれたものは大いに取り入れなければならない。もともと普天堡電子楽団が2009年に発表した曲。しかし、「タンスメ!」の掛け声とともにこの曲の名を知らしめたのは牡丹峰楽団です。ストリングカルテットを中心に据えた牡丹峰楽団の「タンスメ」は、同楽団の代表曲であるとともに、同楽団の方向性を鮮明にした曲でもあります。
金正日
ところで、牡丹峰の「タンスメ」はbondの "Viva!" との類似性が指摘されています。bondは2000年にイギリスで結成されたバンドで、女性4人によるストリングカルテットです(ただ、牡丹峰と違ってbondはアコースティックな弦楽器で演奏することもあるようです)。リンク先のライブ映像を見る限り、「タンスメ」が、そして牡丹峰楽団のコンセプト自体がbondから大きな示唆を受けていることは間違いないように思います。ざっくり言うと、普天堡とbondを足して2で割ったのが牡丹峰って感じですかね。ただ、これをパクりだとかなんとか言うつもりは毛頭なく、むしろこんなものまでチェックしてる朝鮮の音楽関係者はすごいなーっていう話です。
■動画
2014年4月7日月曜日
白頭の行軍路、継いでゆかん (백두의 행군길 이어가리라)
金正日総書記が金日成総合大学在学中の1962年8月29日、オウンドン軍事野営で作った詩をもとにした歌です。
■動画
白頭の行軍路、継いでゆかん
백두의 행군길 이어가리라 | ||
不朽の古典的名作(설명순作曲) | ||
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2014年4月4日金曜日
われらの首領様 (우리 수령님)
われらの首領様
우리 수령님 | ||
1989年創作, 리종률作詞, 엄하진作曲 | ||
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ラベル:
1989年創作
,
オム・ハジン作曲
,
リ・ジョンリュル作詞
2014年4月3日木曜日
われらの金正日同志 (우리의 김정일동지)
わたしが朝鮮音楽を好きになったきっかけの曲。もともと普天堡の曲ですが、功勲版のほうが気に入ってます。
■動画
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2018/10/26 動画を差し替え
われらの金正日同志
우리의 김정일동지 | ||
1994年創作, 류동호作詞, 황진영作曲 | ||
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2018/10/26 動画を差し替え
ラベル:
1994年創作
,
ファン・ジニョン作曲
,
リュ・ドンホ作詞
2014年3月24日月曜日
絶世の愛国者、金正日将軍 (절세의 애국자 김정일장군)
絶世の愛国者、金正日将軍
절세의 애국자 김정일장군 | ||
2001年創作, 최준경作詞, 리광오作曲 | ||
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血の海の歌 (피바다가)
革命歌劇「血の海」の主題歌。金日成主席が作った「不朽の古典的名作」です。
■動画
血の海の歌
피바다가 | ||
不朽の古典的名作 | ||
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2014年3月23日日曜日
あの方だけを思う (그이만을 생각하네)
あの方だけを思う
그이만을 생각하네 | ||
1995年創作, 신지락作詞, 김운령作曲 | ||
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ラベル:
1995年創作
,
キム・ウルリョン作曲
,
シン・ジラク作詞
2014年3月22日土曜日
祖国のふところ (조국의 품)
祖国のふところ
조국의 품 | ||
不朽の古典的名作 | ||
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金正日総書記が金日成主席をうたった歌ですので、ここでいう「将軍様 (장군님)」とはもちろん金日成主席のこと。
■解説
金正日総書記が朝鮮戦争中の1952年夏ごろ創作した歌。当時10歳の総書記が、前線で戦闘を指揮する父・金日成主席に付き添うなかで作りました。以下、『金正日略伝』から引用します。
正日少年は作戦台の前で一晩中眠らずに作戦を練る父につきそって、戦況を見きわめ、敵の企図を砕く方法や攻撃、包囲掃滅の 方法、対空、対戦車戦の方法など、父の卓抜な用兵術と革命的楽 観主義、果敢な攻撃精神、不屈の意志、無比の胆力と軍事的手腕を一つひとつ体得していった。そして父にしたがって砲煙にけむ る人民軍各部隊の火力陣地や岩水の滴る坑道工事現場にも入り、 敵機の猛爆で燃えあがる平壌の市街や農村もつぶさに見た。こうして前線と後方の区別もない苛烈な戦争を体験する過程で、父の卓越した指導によって戦争の勝利と明日の繁栄が約束されていることを感得した。なお金正日総書記は、この「祖国のふところ」に続いて「祝福の歌」という歌も作っています。
正日少年は、こうした日々に体得した信念と意志をこめた歌『祖国のふところ』 を創作した。
■動画
2014年3月17日月曜日
祝福の歌 (축복의 노래)
祝福の歌
축복의 노래 | ||
不朽の古典的名作 | ||
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「안녕을 축복합니다」はそのまま日本語に置き換えれば「安寧を祝福します」ですが、「安寧」も「祝福」も日本語と朝鮮語とでは微妙に意味が違うので、ここは日本語の手紙らしく「ご健勝を お祈り申し上げます」としてみました。そもそも歌詞の元ネタが手紙なので(後述)。
■解説
歌詞は、金正日総書記が朝鮮戦争中の1952年、前線にいる父・金日成主席へ送った手紙がもとになっています。以下、『金正日略伝』から引用します。
1952年8月中旬、正日少年は最高司令部の父のもとを離れて学習に打ち込んだ。そしてこの日々にも険しい前線への道を歩んでいる父の無事を念じてやまなかった。アメリカ帝国主義侵略軍の猛爆のニュースを聞くたびに、日夜前線と後方を駆けめぐる父の安否を気づかった。なお、この「祝福の歌」に先立ち、金正日総書記は「祖国のふところ」を作っています。
正日少年は父に手紙を書いた。
「なつかしいお父さんへ。 お父さん、その後お変わりありませんか? 苛烈な祖国解放戦争でヤンキーを打ちのめすため、さぞご苦労 のことと思います。 ...
そしてなによりも大事なお願いとしてお父さんに申し上げたいことは、お父さんは自分お一人のお体ではなく、全朝鮮人民の領袖だということです。
...お父さんがお体に気をつけ、空襲に注意し、いつもお体をいたわってくださることは全朝鮮人民の幸せであり、またぼくたちの幸せです。
くれぐれもお体に気をつけてくださるよう遠くからお祈りいたします。
父の万年長寿と無事を切々と祈る手紙を受け取った主席はたいそう喜び、最高司令部ではもちろん、危険な前線視察の途につくときにも、その手紙を肌身離さず持っていた。
正日少年はその後、その日の手紙の内容で『祝福の歌』 という歌をつくった。
■動画
2014年3月10日月曜日
復旧建設の歌 (복구건설의 노래)
朝鮮戦争復興期の歌ですね。この時代らしい泥臭いメロディーが印象的です。同時期の歌としては「われらは勝利した」があります。
■動画
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2011/12/13 リクエストをいただき、作成
2014/03/10 2番が抜けていたので追加。あと朝鮮語歌詞も追加
復旧建設の歌
복구건설의 노래 | ||
1953年創作, 류종대作詞, 리천백作曲 | ||
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2011/12/13 リクエストをいただき、作成
2014/03/10 2番が抜けていたので追加。あと朝鮮語歌詞も追加
2014年3月1日土曜日
先軍勝利の花火 (선군승리 불보라)
先軍勝利の花火
선군승리 불보라 | ||
윤두근作詞, 리민호作曲 | ||
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■動画
2014年2月27日木曜日
われらは廃墟から立ち上がった (우리는 빈터에서 시작하였네)
われらは廃墟から立ち上がった
우리는 빈터에서 시작하였네 | ||
1980年創作, 김두일作詞, 리봉룡作曲 | ||
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3人の友だち (세 친구)
3人の友だち
세 친구 | ||
1997年創作, 황진영作詞, 황진영作曲 | ||
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以前mp3をうpしました。
■画像
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2009/06/21 旧ブログに掲載
20**/*/* 新ブログに移植(日付不明)
2014/02/26 改訳・歌詞掲載
ラベル:
ファン・ジニョン作曲
,
ファン・ジニョン作詞
,
朝鮮音楽
わたしは考える (나는 생각해)
わたしは考える
나는 생각해 | ||
1992年創作, 김정훈作詞, 우정희作曲 | ||
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よく朝鮮中央テレビで翌日の番組案内の前に流れる曲です。
■動画
ラベル:
1992年創作
,
ウ・ジョンヒ作曲
,
キム・ジョンフン作詞
2014年2月22日土曜日
金正日同志に捧げる歌 (김정일동지께 드리는 노래)
金正日同志に捧げる歌
김정일동지께 드리는 노래 | ||
1992年創作, 김건일作詞作曲 | ||
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2014年2月14日金曜日
豊年の鳥が飛んでくる (풍년새가 날아든다)
豊年の鳥が飛んでくる
풍년새가 날아든다 | ||
1960年創作, 한찬보作詞, 리동준作曲 | ||
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■動画
2014年2月10日月曜日
首領様のおかげさ (수령님 은덕일세)
現在、電子工業の発展にともなって世界的に新しい電子楽器が出現しており、それにもとづいた新たな現代音楽が発展している。現代科学の成果が取り入れられ、音楽的形象の立体化水準も日ごとに高まっている。こういった音楽の発展趨勢を無視しては音楽を世界的レベルに引き上げることはできない。きょう取りあげるのは「首領様のおかげさ」(1974年創作)です。もとは1970年代の曲ですが、普天堡電子楽団によって再形象されたことで知っている方が多いのではないでしょうか。
金正日
首領様のおかげさ(수령님 은덕일세) | ||
作詞:キム・ジェファ (김재화) 作曲:キム・ジェソン (김제선) | ||
普天堡電子楽団の歌詞 | ||
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普天堡電子楽団(2003年版)の歌詞 | ||
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オリジナル歌詞 | ||
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■音源
■解説
原曲はキム・ジェソンが作曲した歌謡。8分の6拍子の、新民謡風の作品である。歌唱入りのCD音源は確認されていないが、万寿台芸術団による器楽演奏版が存在する(万寿台芸術団第43集)。
とはいえ、冒頭でも述べたように、この曲に関して特筆すべきは普天堡電子楽団による再形象(アレンジ)版だろう。普天堡電子楽団第1集をはじめとして、いくつかのCDに収録されている。録音の時期は不明だが、1980年代後半(85年〜89年)とみられる。なお、これとほぼ同一構成の別録音が普天堡電子楽団第150集(2003年)に収録されている。
編曲を手がけたのは人民芸術家ク・スンヘ (구승해) だ。ク・スンヘは、「首領様のおかげさ」と同じく普天堡電子楽団初期の器楽中心の作品である「フルラリ」「農楽」などのを編曲者であるほか、「勝利の閲兵式」や「われらは党の軍隊」の作曲もしている。普天堡電子楽団では、リ・ジョンオらと同じく指揮者も務めたようだ。
ク・スンヘが編曲した「首領様のおかげさ」は、およそ4分の作品。冒頭に鳴りはじめる電子音は、なんとも言えずチープであり、コミカルですらある。しかし、そこへベースやエレキギターの音色が合流していき、男声ボーカルも被さったところでピアノソロが一気に曲を盛り上げる。そして、本曲の主題である「首領様のおかげさ」(原曲)のメロディを、安定感あるお馴染みの普天堡サウンドが奏ではじめる。原曲のメロディが1周し、2周目に入ると歌詞のボーカルも加わる。それでも、歌われるのは3節から成る原曲のうち第1節(1番)、それも「千里の野 黄金の野は/豊作に恵まれて/農場の村 分配場は/めでたきに沸く」まで。そこからは再び器楽に戻り、2周目が終わる。ここまでが全4分のうち前半2分。
さて、後半2分へ差しかかったころで、さらにドラスティックな展開が待ち受けている。転調だ。いったい何が起ころうとしているのか。「めでたや (オルサ)...」から始まるボーカルの掛け合いが過ぎ去ると、民謡「豊年歌 (풍년가)」のメロディが一瞬、顔を見せる。
だが、これが単に「豊年歌」を引用したのではないことが、すぐさま明らかになる。なんと後半2分の主題は、あの「チョンサンポル (청산벌)」、つまり「青山里に豊年が来た (청산벌에 풍년이 왔네)」(1960年創作、金玉成作曲)そのものなのだ。「この幸せを/誰がくださったのか/...」に始まる本曲のクライマックスは、メロディも歌詞も、「チョンサンポル」のクライマックスと完全に共通している。そして、男声ボーカルが「首領様の ご恩なのさ」と高らかに歌い上げ、その余韻をドラムソロが受けとめきったところで、「チョンサンポル」に憑依されていた本曲は、われに返ったかのごとく再び転調し、原曲「首領様のおかげさ」に戻って締めくくられる。
ところで、転調以外にも、この曲には音楽的に特筆すべき点がある。前半2分の主題として用いられた「首領様のおかげさ」は、たしかにメロディは原曲と同一なのだが、拍子が原曲と異なるのだ。ク・スンヘは、「首領様のおかげさ」といういかにも民謡然とした8分の6拍子の曲を題材に選んだうえで、あえて拍子まで現代風にアレンジする大胆な再形象に挑んだということになる。思えば、「チョンサンポル」も、4拍子の曲でありながら、8分の6拍子の民謡「豊年歌」のメロディを引用していた(それゆえ、さっき「豊年歌」に言及したのである)。
また、クライマックスで歌唱される2回の「この幸せを/誰がくださったのか」においてボコーダーを使用していることも見逃せない。普天堡電子楽団第1集の録音ではシンセ音と同化してしまっていてわかりづらいが、普天堡電子楽団日本公演の映像(1991年、日本青年館)では、功勲俳優キム・ヘソン (김해성) がカシオ製のボコーダーつきシンセサイザーと思われる機材を使用しているのがはっきりと確認できる。「首領様のおかげさ」は、編曲だけでなく、機材面でも野心的な試みがなされていたというわけだ。ボコーダーの使用は、普天堡電子楽団の他作品に見られない特徴である。
さて、この記事の冒頭に掲げた金正日総書記の言葉は、『音楽芸術論』(1991年)からの引用だ。1980年代は、欧米と日本を中心にテクノやエレクトロが音楽チャートを席巻した時代。総書記は、こういった世界的な現代音楽の流れを意識していたのだろう。当該箇所の記述は次のように続く。
外国の音楽の成果と経験を取り入れるにあたっては、なんでも見境なしに取り入れたり、うのみにすることなく批判的に取り入れて、自分のものとして消化する必要がある。外国の音楽はいかにりっぱなものであっても、そのまま自国の現実と人民の好みに合うわけではない。思えば、朝鮮民主主義人民共和国の音楽史は、いかに「主体性」を確保したうえで、「現代化」も怠らず、かつ「人民の好みに合う」音楽を生み出すか——という難題とともに歩み続けてきた歴史であった。その試行錯誤の歩みのなかで、金玉成の「青山里に豊年が来た(チョンサンポル)」はひとつのメルクマールであったように思う。
音楽の現代化においても主体性を確立しなければならない。われわれは電子楽器を利用するにしても朝鮮音楽に合うように利用し、現代音楽を演奏するにしても朝鮮式に演奏すべきである。人民が普天堡電子楽団の音楽を好むのは、電子楽器で朝鮮音楽を朝鮮式にりっぱに演奏するからである。
普天堡電子楽団の「首領様のおかげさ」は、「チョンサンポル」への、そして、「チョンサンポル」に象徴される先人たちの音楽的闘争へのオマージュだったのではないか。電子楽器という新しい武器を手にした新進気鋭の音楽人たち。彼らにとって、この作品こそ、かの朝鮮音楽史上の難題にたいする解答として、満を持して世に —そして金正日総書記に— 送り出した、いわば「第二のチョンサンポル」だったのではないか。そんな想像を膨らませずにはいられない。
いずれにしても普天堡電子楽団の「首領様のおかげさ」は、間違いなく、チュチェ音楽のひとつの到達点だ。
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