2015年2月26日木曜日

足取り (발걸음 パルコルム)

足取り
발걸음
리종오作詞・作曲
出典:《금수강산》2012.2
タッタッ タッタッタ 足取り
われらの金大将の足取り
2月の精気 振りまいて
前へと タッタッタ
足取り 足取り

力強く ひと度踏み鳴らせば
国中の山河が

喜んで タッタッタ

タッタッ タッタッタ 足取り
われらの金大将の足取り
2月の気性 見せつけて
前へと タッタッタ
足取り 足取り

力強く ひとたび踏み鳴らせば
国中の人民が

従って タッタッタ

タッタッ タッタッタ 足取り
われらの金大将の歩み
2月の偉業 受け継いで
前へと タッタッタ
足取り 足取り

もっと高く 鳴らし広げよ
燦爛たる未来を

近づけて タッタッタ
척척 척척척 발걸음
우리 김대장 발걸음
2월의 정기 뿌리며
앞으로 척척척
발걸음 발걸음
힘차게 한번 구르면
온나라 강산이
반기며 척척척

척척척척척 발걸음
우리 김대장 발걸음
2월의 기상 떨치며
앞으로 척척척
발걸음 발걸음
힘차게 한번 구르면
온 나라 인민이
따라서 척척척

척척척척척 발걸음
우리 김대장 발걸음
2월의 위업 받들어
앞으로 척척척
발걸음 발걸음
더 높이 울려퍼져라
찬란한 미래를
앞당겨 척척척

■解説

金正恩第1書記を称揚する歌として初めて発表されたもの。金日成主席の「初の頌歌」は「金日成将軍の歌」(ただし公式には「朝鮮の星」)、金正日総書記の「初の頌歌」は「代を継ぎ忠誠をつくします」であるが、それらと並ぶ金正恩の「初の頌歌」がこの「足取り(パルコルム)」ということになる。

2009年6月、日本や韓国のメディアは「パルコルム」の登場を相次いで報じた。日韓のメディアが北朝鮮の特定の歌が取りあげるのは、極めて異例のことである。当時は、金正日の後継者問題が取り沙汰されていた時期。メディアは、「パルコルム」の発表・普及が金正恩への後継作業を暗示するものとみなし、注目したのであろう。このことで「パルコルム」の存在が日本でも知られるところとなった。

韓国の東亜日報は6月2日付で「北で正恩氏への忠誠競争が始まった」とする記事を掲載。そのなかで「パルコルム」の歌詞全文を引用した。また、日本のラヂオプレス(RP)が24日、「パルコルムが芸術公演などで披露される頻度が増えている」と伝えると、共同通信など日本のメディア各社がそれを取りあげた。
金正雲氏を“たたえる歌” 4月下旬から頻発 RP報道  

ラヂオプレス(RP)は24日、北朝鮮の金正日総書記の三男、正雲(ジョンウン)氏をたたえる歌との報道もある「パルコルム(歩み)」が、今年2月ごろから北朝鮮の芸術公演で披露されるようになり、4月下旬以降は頻度が増加していると伝えた。

 韓国メディアは、パルコルムには「金大将の歩み、さらに高らかに響き渡れ」との歌詞があり、「金大将」は正雲氏を指すと報道。北朝鮮指導部が正雲氏を後継者として国民に宣伝するため、歌を普及させているとしている。

 RPによると、歌が初めて金総書記の前で披露されたのは、2月23日に報道された朝鮮人民軍第264大連合部隊の芸術公演。これまでに金総書記の前で計4回上演されたほか、4月24日の朝鮮人民軍協奏団の公演などで披露された。テレビやラジオで歌が放送された例は確認されていないという。(共同)

(MSN産経ニュース[当時]に2009年6月24日掲載。同記事はすでにリンク切れしているので、ここに載せ続けるのは適切ではないかもしれないが、消すのももったいないのでそのまま載せておく)
この記事にも見られるように、日本のメディアの多くは、曲名の「발걸음」をそのまま片仮名に置き換えた「パルコルム」という表記を用いた。本サイトもそれに倣い、同曲の通称として「パルコルム」を用いることとする。

さて、この「パルコルム」は、いつ作られた歌なのだろうか。現在のところ、公式媒体を通じて創作年などが発表されたことは確認されていない。

しかし、金正日の料理人をつとめたとされる藤本健二が2009年7月、日本テレビの番組で述べたところによれば、「パルコルム」は金正恩の9歳の誕生日(1992年1月8日)にあわせて普天堡電子楽団が創作したのだという。また、毎日新聞は2010年9月、藤本による次のような証言を取りあげている。
92年1月8日、招待所での正銀氏9歳の誕生日。宴会場に入り、席に着くと、テーブルにメニューともう1枚紙があった。なにやら歌詞が印刷してある。乾杯がすむと、いきなり控えていた総書記お気に入りのポチョンボ電子楽団の演奏が始まった。女性歌手が歌ったのが「パルコルム(足取り)」だった。

(中略)

「……当時の歌詞は<金大将>でなく、<小さな大将>でした。実は将軍は数字の9にこだわる。自身の誕生日は2月16日、2+1+6=9。正銀大将も1+8=9。しかも9歳だから将軍はすごく機嫌よくて。作曲したリ・ジョンオ氏に礼を述べ、大将も『コマプスムニダ(ありがとうございます)』を繰り返した。……」
『毎日新聞』(東京夕刊)2010.09.29
藤本の証言を立証することは困難だ。しかし、「パルコルム」の作詞・作曲をリ・ジョンオ[리종오]が手がけたことは、その後、公式媒体から発表されている(『금수강산』2012.2)。リ・ジョンオといえば、かつて普天堡電子楽団を牽引した作曲家だ。つまり、「パルコルム」を創作したのが普天堡電子楽団であり、作曲者がリ・ジョンオであるという点に関しては、藤本の証言が公式情報からも裏付けられたと言える。

リ・ジョンオは1992年2月13日、北朝鮮政府から「労力英雄」称号を授与された。「パルコルム」が金父子の前で披露されたと藤本が証言する日から、約1カ月後のことである。それまで労力英雄称号をもつ作曲家は、「金日成将軍の歌」などを作曲した金元均ただ1人だった。リ・ジョンオは、金元均に続く2人目の「英雄作曲家」ということになる(「金正日将軍の歌」のソル・ミョンスンは2001年に労力英雄称号受称。なお、作曲家への労力英雄称号授与についてはこの記事でも述べた)

もちろん、リ・ジョンオが「パルコルム」を作詞・作曲した直後に労力英雄称号を授与されたからといって、「パルコルム」と称号授与とのあいだに因果関係があるとみなすのは早計だ。「パルコルム」を抜きにしても、リ・ジョンオの朝鮮音楽への貢献は極めて多大なものであり、それが評価されて称号授与へ繋がったと考えるのが自然である。とはいえ、普天堡電子楽団への評価に金正恩の存在が何らかの形で介在していたのだとすれば、興味深いことだ。

今後、「パルコルム」の創作時期や背景などについても、「逸話」などの形式で公式に発表される可能性がある。その内容が藤本の証言を裏付けるようなものとなるか、注目したい。

■動画


■この記事について

2009年6月に相次いだ「パルコルム」をめぐる報道を受け、本サイトは同25日、「キム・ジョンウン同志のうた 『パルコルム』(歩み)」と題する記事を掲載した。同記事では、本記事の解説中で引用した産経(共同)の記事を引用。また、東亜日報が紹介した「パルコルム」の歌詞を引用するとともに、その和訳を作成して掲載した。

2009年に作成した記事は、各種報道を受けての速報として、急遽、作成したものである。歌詞や画像を雑然と並べただけのもので、その歌詞にも誤りがあったなど(コメント欄でご指摘いただいた)、見るに堪えないようなものであった。

その後、ちゃんとした記事に作り替えなければと思いつつ、1年経ち、2年経ち、そのあいだに「パルコルム」の各種録音も公開され(2011年おわり〜12年はじめごろ)、それでもめんどくさくてやらなかった。そして、6年近くが経った2015年2月になってようやく、重い腰を上げ、ちゃんとした記事に作り替えるに至ったのである。それが本記事だ。

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2009/06/25 「パルコルム」登場の報道を受け、掲載。記事名「キム・ジョンウン同志のうた 『パルコルム』(歩み)」
日付不明 旧ブログから新ブログへ移植
2015/02/26 全面改訂。解説を作成。曲名の和訳は「足取り」に変更

2015/03/04 解説を加筆
2017/06/02 誤字修正

2015年2月24日火曜日

干潟に刻む青春の心 (간석지에 새겨 가는 청춘의 마음)

干潟に刻む青春の心
간석지에 새겨 가는 청춘의 마음
1982年創作, 백수길作詞, 박무준作曲
月も明るい 干潟の夜
百里の堤防 見わたせば
玉の汗 流した 青春の証し
この胸に あふれてくる
語れ わが心よ 青春の心よ
どんな栄誉を それか 名誉を
求めてここへ 来たというのか

華やかな道にも いとしい家にも
背を向けて われらは来た
嵐を衝いて 首領様が歩まれた
その足跡を 思うのだ
燃えろ 心よ 青年の心よ
その足跡を追って われらは来たのだ
青春の 夢を抱いて

あすにはこの 青春の堤防
はるかに伸びてゆくだろう
金の波は立ち 新たな街はそびえ
笑いの花が あふれるのだ
友よ その日には 望むものなどあろうか
首領様の構想を 党の尊い意志を
青年たちが 花開かせたのだから

望むものなどあろうか これほどの幸せを
われらは知らない
달빛도 밝은 간석지 이 밤
백리제방 바라보니
구슬땀 흘린 청춘의 보람
가슴에 넘쳐나네
말하라 심장아 청춘의 심장아
그 어떤 영예를 아니면 명예를
바라서 예 왔더냐

화려한 길도 정다운 집도
뒤에 두고 우리 왔네
비바람 헤치며 수령님 오신
그 자욱 생각했네
불타라 심장아 청춘의 심장아
그 자욱 따라서 우리는 왔다네
청춘의 꿈을 안고

래일엔 여기 청춘의 제방
아득히 뻗어가리
금물결 일고 새 거리 솟아
웃음꽃 넘치리라
동무여 그날에 그 무엇 바라랴
수령님 구상을 우리 당 높은 뜻
청년들 꽃 폈거늘

그 무엇 바라랴 이보다 큰 행복
우리는 모른다네

■解説
 我が党の第6回大会は、1980年代の末までに30万ヘクタールの海面干拓をおこない、20万ヘクタールの新しい土地を開墾するという課題を示しました。我々が第6回党大会の決定を実行してこの課題を遂行するならば、現在の穀類作物面積の3分の1に相当する耕地面積が増えることになります。これは、我が国の社会主義農業の発展においていま一つの偉大な出来事となるでしょう。

金 日 成 [1981年10月5日]
1981年10月、朝鮮労働党6期4次全員会議は「4大自然改造事業」の実施を決定した。その内容は、①西海閘門の建設、②泰川水力発電所の建設、③30万町歩の干潟を干拓すること、④20万町歩の新しい土地を開拓すること——である。なかでも①西海閘門は、紙幣にも描かれるなど、北朝鮮史上最大の国家プロジェクトのひとつとして知られる。

しかし、これら4つの事業は決して独立したものではない。主眼はあくまで③と④(すなわち耕作地拡大)であって、それを実現する手段が①と②なのである。

西海閘門と西海干拓地は、平壌の外港である南浦に位置する。ここは大同江の河口にあたり、また、広大な干潟が広がっている。西海閘門建設にあたっては、金正日総書記がたびたび視察に訪れるなど、国家を挙げた大事業として実施された。

大同江の河口を塞ぐようなかたちで西海閘門を建設することによって、干潟の干拓を可能にするとともに、干拓地の農業用水を確保することを目指した。また、閘門の上に道路や鉄道(西海閘門線)を通すことで広大な河口域の交通が容易になったほか、潮位の差が激しい南浦港に大型船が停泊できようになった。


■動画




▲普天堡電子楽団第1集に入っている器楽版

2015年2月22日日曜日

労農赤衛隊行進曲 (로농적위대행진곡)

きょうは「労農赤衛隊行進曲」(1961年創作)を紹介します。私が朝鮮軍歌のなかで最も好きな曲を問われたら、迷った末にこの「労農赤衛隊行進曲」を挙げるような気がします。戦時歌謡以外に限って言えば間違いなくこの曲が一番好きです。
労農赤衛隊行進曲
로농적위대행진곡
1961年創作, 안영作詞, 김성영作曲
われら共和国の 労農赤衛隊
労働党が育てた 逞しき子ら
党と首領を 命をもって守り
社会主義の戦いとったもの 守ってゆく
進め 赤衛隊 抗日の伝統継ぎ
進め 赤衛隊 固く団結して進め

われら誉れある 労農赤衛隊
金日成大元帥様の 教えに従い
全国を鉄壁のごとく固め
社会主義の戦いとったもの 守ってゆく
進め 赤衛隊 抗日の伝統継ぎ
進め 赤衛隊 固く団結して進め

われら党の戦士 労農赤衛隊
銃と鎚とを固く握った 革命の戦士
奸悪なる仇敵 米帝を一掃しよう
わが祖国の南側 解放しよう
進め 赤衛隊 抗日の伝統継ぎ
進め 赤衛隊 固く団結して進め
우리는 공화국의 로농적위대
로동당이 키워낸 억센 아들딸
당과 수령을 목숨으로 보위해가며
사회주의전취물을 지켜 나간다
나가자 적위대 항일의 전통 이어
나가자 적위대 굳게 뭉쳐나가자

우리는 영예로운 로농적위대
김일성대원수님 가르치심 따라
온 나라를 철벽으로 다져 가며
사회주의전취물을 지켜 나간다
나가자 적위대 항일의 전통 이어
나가자 적위대 굳게 뭉쳐나가자

우리는 당의 전사 로농적위대
총과 마치 굳게 잡은 혁명의 전사
간악한 원쑤 미제 쓸어 버리자
내 조국 남녘땅을 해방하리라
나가자 적위대 항일의 전통 이어
나가자 적위대 굳게 뭉쳐나가자
■解説

労農赤衛隊(労農赤衛軍)の起源は、ソ連軍占領期の朝鮮半島北半分で組織された「農村自衛隊」に遡る。ソ連軍は北朝鮮において急速に社会主義化を推し進めたが、そのなかでも柱となる政策が、1946年3月の土地改革(地主から土地を取りあげて小作農に分け与えること)だった。このとき、地主勢力の抵抗を抑え込み土地改革を円滑に執り行うべく、農民を組織した民兵組織が結成された。それが農村自衛隊だったのである。

農村自衛隊はその後、朝鮮戦争を経て「自衛隊」に改称れた。さらに1959年、北朝鮮から中国人民解放軍が撤退すると、金日成は民兵の強化を決意。自衛隊は「労農赤衛隊」に改編された(この50年代あたりの経緯は調べてもよくわからなかったので、とりあえず、こういうあいまいな書き方にしておく)

「労農赤衛隊行進曲」が創作されたのは、労農赤衛隊結成から2年が経った1961年。1961年といえば農業集団化もまだ道半ばで、多くの農村は土地改革後の雰囲気をそのままに留めていたことであろう(もっとも、朝鮮戦争で破壊されてしまったところもあるだろうが)。「労農赤衛隊行進曲」の泥臭さ漂うメロディには、土地改革を武力で遂行した農村自衛隊の泥臭い革命伝統が息づいているような気がする。

なお、「労農赤衛隊行進曲」という同名の曲が1996年にも作られている。

■動画



↑この動画の最初に出てくる金日成広場の人文字は「全民武装化」、最後に出てくるのが「全国要塞化」。労農赤衛隊結成と同じ流れで1962年に採択された「四大軍事路線」(「全人民武装化」「全国土要塞化」「全軍幹部化」「全軍近代化」)のうち2つです。


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2013/04/06 和訳を修正
2015/02/22 全面改訂

2015/02/28 作曲者名を訂正。ありがとうございます(^o^)

2015年2月8日日曜日

朝鮮人民軍歌 (조선인민군가)

きょうは2月8日。1948年のこの日、朝鮮人民軍が正式に設置されました(「朝鮮人民軍創建記念日」の4月25日は朝鮮人民革命軍の創建日)。労働新聞にこの歌の記事が載っていたので、改めて取りあげてみます。まずは、現在知られている歌詞から。
朝鮮人民軍歌
조선인민군가
1968年創作, 리범수作詞, 라국作曲
出典:조선노래대전집 (2002.12)
抗日の輝く 伝統を継ぎ
鋼鉄ごとく固い 栄光の隊伍
金日成元帥の 赤き戦士として
社会主義のわが祖国 守り戦う
進め 朝鮮人民軍

一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん

青春も生命も みな捧げ
革命に忠実な 勝利の隊伍
偉大な首領様が お導きになる
党中央を命をかけ 守り戦う

進め 朝鮮人民軍
一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん

過ぎし闘いの 歩みごと
勝利に輝く 不敗の隊伍
首領様が示される ただ一路に
朝鮮の革命 完遂せん

進め 朝鮮人民軍
一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん
항일의 빛나는 전통을 이어
강철로 다져진 영광의 대오
김일성원수님의 붉은 전사로
사회주의 내 조국 지켜 싸운다
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자

청춘도 생명도 모두다 바쳐
혁명에 충직한 승리의 대오
위대한 수령님이 령도하시는
당중앙을 목숨으로 지켜 싸운다
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자

지나온 싸움의 발걸음마다
승리로 빛나는 불패의 대오
수령님이 부르시는 오직 한길로
조선의 혁명을 완수하리라
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자
続いて、1968年発行の歌集に掲載されている「進め朝鮮人民軍 (나가자 조선인민군)」です。こんにち知られている「朝鮮人民軍歌」の原型かと思います。
進め朝鮮人民軍
나가자 조선인민군
리범수作詞, 라국作曲
出典:조선민주주의인민공화곡창건20주년기념노래집 《빛나라 어머니 조국》 (1968.08)
抗日の輝く 伝統を継ぎ
鋼鉄ごとく固い 栄光の隊伍
革命の赤き血 党に捧げて
社会主義のわが祖国 守り戦う
進め 朝鮮人民軍

一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん

過ぎし闘いの 歩みごと
勝利に輝く 不敗の隊伍
人民の幸福を 血に代え守った
戦闘の旗が 前に翻る

進め 朝鮮人民軍
一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん

青春も生命も みな捧げ
首領に誓った 勝利の隊伍
厳しき戦闘の 炎を越え
祖国の南側 解放せん

進め 朝鮮人民軍
一騎当千の勇猛 見せつけて
帝国主義の侵略者

残らず打ち砕かん
항일의 빛나는 전통을 이어
강철로 다져진 영광의 대오
혁명의 붉은피 당에 바치여
사회주의 내 조국 지켜 싸운다
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자

지나온 싸움의 발걸음마다
승리로 빛나는 불패의 대오
인민의 행복을 피로 지켜낸
전투의 기발이 앞에 날린다
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자

청춘도 생명도 모두다 바쳐
수령께 맹세한 승리의 대오
진엄한 전투의 불길을 넘어
조국의 남녘땅 해방하리라
나가자 조선인민군

일당백 용맹을 떨치며
제국주의침략자

모조리 때려 부시자

■解説
 この20年間、我が国で起こった激しい革命の嵐のなかで、くつがえされた搾取階級の反抗を鎮圧する熾烈な階級闘争の試練のなかで、外国帝国主義侵略者を撃退する苛烈な戦争の砲火のなかで、人民軍は、政治的、思想的に、軍事技術的にいっそう洗練され、鍛えられ、豊富な経験をつんだ強力な革命の武力に成長しました。
金 日 成 [1968年2月8日]
代表的な軍歌のひとつ。労農赤衛隊(労農赤衛軍)における「労農赤衛隊行進曲」と同様、朝鮮人民軍を象徴する歌である。各種行事で広く演奏され、特に人民軍の閲兵式ではおなじみの曲だ。三部形式の行進曲風に編曲されたバージョン(動画2つめ)も存在し、2013年初頭ごろから功勲国家合唱団や牡丹峰楽団の公演でたびたび披露されている。

「朝鮮人民軍歌」は1968年に創作された(『조선노래대전집』)。この年は朝鮮人民軍創建20周年にあたり、ちょうど20年目の2月8日には、金日成も参加する祝賀宴などの行事が催された。各種歌集を確認する限り、1968年の、おそらく2月から8月までのあいだに「進め朝鮮人民軍」が創作されたようだ。そしてその後、遅くても1977年までには歌詞と曲名が現在の「朝鮮人民軍歌」の形に改められたとみられる。

「朝鮮人民軍歌」が創作された1968年は、人民軍創建20周年であっただけでなく、朝鮮戦争以来の大規模な軍事衝突の発生が現実味を帯びつつある年でもあった。

キューバ危機や中ソ対立を目の当たりにした金日成は、1962年に「四大軍事路線」を、1964年に「三面革命論」を提起。1960年代後半に入ると、朴正煕政権の安定と韓国の経済成長、日韓基本条約締結による日韓の接近、ベトナム戦争の激化、それに伴う韓国のベトナム派兵など、北朝鮮に危機感を抱かせるような事態がさらに続いた。

そんななか、1968年1月下旬、「青瓦台襲撃事件」と「プエブロ号事件」が相次いで発生。同年2月8日の人民軍創建20周年記念行事は、それに続く緊迫状態のなかで行われたに違いない。

ところで、そのころ、人民軍創建20周年を記念する歌集(『조선인민군창건20주년기념가요곡집 《초병의 노래》』)が作られた。1968年2月8日付け発行である。しかし、そこに「進め朝鮮人民軍」は掲載されていない。人民軍創建20周年の時点ではまだ存在していなかったか、存在していたとしても、それほど重要な歌とはみなされていなかったのではないだろうか。

「朝鮮人民軍歌」は、「進め朝鮮人民軍」の歌詞を概ね継承している。一方で、「革命の武力」たる朝鮮人民軍の性質を強調すべく、いくつか重要な変更がなされている。

まず目を引くのは、1番〜3番の各節に首領への言及が設けられたことである。これにより、人民軍が首領の軍隊であることが強調された。また、3番に追加された「朝鮮の革命/完遂せん」というくだりからは、人民軍の位置づけが「国防の手段」である以前に「階級闘争の手段」であることを、鮮明に見てとれる。

レーニンは「戦争は政治の延長である」とするクラウゼヴィッツの議論を研究し、自らの革命理論を構築した。レーニンの見解を踏襲し、金日成も「戦争は、その本質において特別な暴力手段によるある階級の政策の延長である」と述べている。言い換えれば、帝国主義との戦争も、南半分を解放するための戦いも、階級闘争の延長にあるのである。そして、その戦いを遂行する「革命の武力」こそ、「革命に忠実な/勝利の隊伍」である朝鮮人民軍なのだ。

「進め朝鮮人民軍」から「朝鮮人民軍歌」へのリニューアルによって、この歌は、「革命の武力」たる朝鮮人民軍を象徴する歌として、真に命を吹き込まれたのである。


■音源




「朝鮮人民軍歌」

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2010/06/27 記事作成
2015/02/08 改訳。「進め朝鮮人民軍」を追加 

2015/02/22 解説を作成
2016/02/20 コメント欄でのご指摘にもとづき、原文歌詞を修正。ありがとうございました。

 
(^q^)