朝鮮人民軍歌
조선인민군가 | ||
1968年創作, 리범수作詞, 라국作曲 出典:조선노래대전집 (2002.12) | ||
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進め朝鮮人民軍
나가자 조선인민군 | ||
리범수作詞, 라국作曲 出典:조선민주주의인민공화곡창건20주년기념노래집 《빛나라 어머니 조국》 (1968.08) | ||
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■解説
この20年間、我が国で起こった激しい革命の嵐のなかで、くつがえされた搾取階級の反抗を鎮圧する熾烈な階級闘争の試練のなかで、外国帝国主義侵略者を撃退する苛烈な戦争の砲火のなかで、人民軍は、政治的、思想的に、軍事技術的にいっそう洗練され、鍛えられ、豊富な経験をつんだ強力な革命の武力に成長しました。代表的な軍歌のひとつ。労農赤衛隊(労農赤衛軍)における「労農赤衛隊行進曲」と同様、朝鮮人民軍を象徴する歌である。各種行事で広く演奏され、特に人民軍の閲兵式ではおなじみの曲だ。三部形式の行進曲風に編曲されたバージョン(動画2つめ)も存在し、2013年初頭ごろから功勲国家合唱団や牡丹峰楽団の公演でたびたび披露されている。
金 日 成 [1968年2月8日]
「朝鮮人民軍歌」は1968年に創作された(『조선노래대전집』)。この年は朝鮮人民軍創建20周年にあたり、ちょうど20年目の2月8日には、金日成も参加する祝賀宴などの行事が催された。各種歌集を確認する限り、1968年の、おそらく2月から8月までのあいだに「進め朝鮮人民軍」が創作されたようだ。そしてその後、遅くても1977年までには歌詞と曲名が現在の「朝鮮人民軍歌」の形に改められたとみられる。
「朝鮮人民軍歌」が創作された1968年は、人民軍創建20周年であっただけでなく、朝鮮戦争以来の大規模な軍事衝突の発生が現実味を帯びつつある年でもあった。
キューバ危機や中ソ対立を目の当たりにした金日成は、1962年に「四大軍事路線」を、1964年に「三面革命論」を提起。1960年代後半に入ると、朴正煕政権の安定と韓国の経済成長、日韓基本条約締結による日韓の接近、ベトナム戦争の激化、それに伴う韓国のベトナム派兵など、北朝鮮に危機感を抱かせるような事態がさらに続いた。
そんななか、1968年1月下旬、「青瓦台襲撃事件」と「プエブロ号事件」が相次いで発生。同年2月8日の人民軍創建20周年記念行事は、それに続く緊迫状態のなかで行われたに違いない。
ところで、そのころ、人民軍創建20周年を記念する歌集(『조선인민군창건20주년기념가요곡집 《초병의 노래》』)が作られた。1968年2月8日付け発行である。しかし、そこに「進め朝鮮人民軍」は掲載されていない。人民軍創建20周年の時点ではまだ存在していなかったか、存在していたとしても、それほど重要な歌とはみなされていなかったのではないだろうか。
「朝鮮人民軍歌」は、「進め朝鮮人民軍」の歌詞を概ね継承している。一方で、「革命の武力」たる朝鮮人民軍の性質を強調すべく、いくつか重要な変更がなされている。
まず目を引くのは、1番〜3番の各節に首領への言及が設けられたことである。これにより、人民軍が首領の軍隊であることが強調された。また、3番に追加された「朝鮮の革命/完遂せん」というくだりからは、人民軍の位置づけが「国防の手段」である以前に「階級闘争の手段」であることを、鮮明に見てとれる。
レーニンは「戦争は政治の延長である」とするクラウゼヴィッツの議論を研究し、自らの革命理論を構築した。レーニンの見解を踏襲し、金日成も「戦争は、その本質において特別な暴力手段によるある階級の政策の延長である」と述べている。言い換えれば、帝国主義との戦争も、南半分を解放するための戦いも、階級闘争の延長にあるのである。そして、その戦いを遂行する「革命の武力」こそ、「革命に忠実な/勝利の隊伍」である朝鮮人民軍なのだ。
「進め朝鮮人民軍」から「朝鮮人民軍歌」へのリニューアルによって、この歌は、「革命の武力」たる朝鮮人民軍を象徴する歌として、真に命を吹き込まれたのである。
■音源
「朝鮮人民軍歌」
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2010/06/27 記事作成
2015/02/08 改訳。「進め朝鮮人民軍」を追加
2015/02/22 解説を作成
2016/02/20 コメント欄でのご指摘にもとづき、原文歌詞を修正。ありがとうございました。