2015年4月19日日曜日

金日成将軍の歌 (김일성장군의 노래)

革命に必要なのは名曲である。
金正日
永生不滅の革命頌歌 (영생불멸의 혁명송가)
金日成将軍の歌
김일성장군의 노래
1946年創作, 李燦作詞, 金元均作曲
出典:조선노래대전집 (2002.12)
長白山の山なみ 血のにじむ足跡
鴨緑江の流れに 血のにじむ足跡
きょうも自由朝鮮の花束のうえに
歴々と照らしてくれる偉大な足跡
ああ その名もゆかしい われらの将軍
ああ その名も輝かしい 金日成将軍

満州の野の吹雪よ 語るのだ
密林の長き夜よ 告げるのだ
万古のパルチザンが 誰であるかを
絶世の愛国者が 誰であるかを
ああ その名もゆかしい われらの将軍
ああ その名も輝かしい 金日成将軍

労働者大衆には 解放の恩人
民主の新朝鮮には 偉大な太陽
二十個政綱のうえに みなつどい
北朝鮮の津々浦々 春をよぶ
ああ その名もゆかしい われらの将軍
ああ その名も輝かしい 金日成将軍
장백산 줄기줄기 피어린 자욱
압록강 굽이굽이 피어린 자욱
오늘도 자유조선 꽃다발우에
력력히 비쳐 주는 거룩한 자욱
아 그 이름도 그리운 우리의 장군
아 그 이름도 빛나는 김일성장군

만주벌 눈바람아 이야기하라
밀림의 긴긴 밤아 이야기하라
만고의 빨찌산이 누구인가를
절세의 애국자가 누구인가를
아 그 이름도 그리운 우리의 장군
아 그 이름도 빛나는 김일성장군

로동자대중에겐 해방의 은인
민주의 새 조선엔 위대한 태양
20개 정강우에 모두다 뭉쳐
북조선 방방곡곡 새봄이 온다
아 그 이름도 그리운 우리의 장군
아 그 이름도 빛나는 김일성장군
■解説

「金日成将軍の歌」の歌詞は「長白山の山なみ 血に染めて」など具体的な描写を積極的に取り入れることでロマンを掻き立て、反復を多用することで情緒を高めていく。そして、聞く者・歌うものはそのロマンと情緒のイメージに各節最後の「金日成将軍」という名前を結びつけることになる。もちろん、反復の多用による冗長さや、第3節で急に説明的になるあたりなどからは、どこか洗練されていない印象も受けなくはない。しかし、その青臭さすらも若い国の若い指導者を歌うにふさわしいダイナミズムだと感じさせてしまう魅力が「金日成将軍の歌」の歌詞にはある。

1945年8月、日本による植民地支配が終焉すると、ソ連軍による軍政の時代が訪れた。実は、この時期すでに、音楽は大衆動員の重要な手段とみなされていた。解放から1年も経たない1946年7月、平壌市音楽同盟(朝鮮音楽家同盟の前身のひとつ)の組織的関与のもと「金将軍の歌 (金將軍의 노래)」が創作・発表されたのである。同曲はまもなく「金日成将軍の歌 (김일성장군의 노래)」 という曲名に改められる。

この歌こそ、こんにち北朝鮮において「永生不滅の革命頌歌」と賞讃され、「チュチェ音楽」を織りなす楽曲ヒエラルキーの頂点に君臨する、あの「金日成将軍の歌」にほかならない。金正日も、「頌歌のなかで『金日成将軍の歌』 は最高の名曲」だと評価する(『音楽芸術論』)

「金日成将軍の歌」は発表後すぐさま、大衆への普及がはかられた。1946年夏のうちにはラジオ放送の開始・終了時に「金日成将軍の歌」が流されるようになった。また、学校教育の場でも「金日成将軍の歌」が用いられた。1947年2月の資料には、 文盲退治事業の一環として成人学校で「金日成将軍の歌」の歌唱指導を行ったとする記述がある。さらに、漢字混用だった歌詞が朝鮮文字(ハングル)に改められたり、歌詞中の「労働者」が一時期「勤労者」に変えられたりと、平易になるよう修正された。大衆教育を意識してのことだろう。

解放以前の朝鮮は教育水準が低く、工業は相対的に未発達で(したがって生産力は低く、労働者階級の力も弱い)、共産主義運動の土壌はきわめて脆弱だった(この点については「愛国歌」の解説でも触れた)。このような条件のもと、ソ連軍占領当局は北朝鮮の社会主義化を実施したのである。「金日成将軍の歌」の創作・普及の経緯は、このような朝鮮革命の特異性、さらには、その特異性の産物とも言える「音楽政治」を考えるうえで示唆的だ。

「金日成将軍の歌」から出発した北朝鮮の「音楽政治」は、その後、長い試行錯誤と葛藤の歴史を経ることになる。「金日成将軍の歌」も、北朝鮮の歴史上、必ずしも現在と同じ絶対的な扱いを一貫して受けてきたわけではないことに留意しなければならない。北朝鮮におけるあらゆる事物がそうであるように、その意義は幾度となく再解釈されてきたのである。

しかし、北朝鮮の音楽史において、「金日成将軍の歌」の経験が、強烈な原体験として君臨してきたことは間違いない。「金日成将軍の歌」の誕生によって、北朝鮮は「音楽政治」の国となることを宿命づけられたと言っても過言ではないだろう。

■動画



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2015/04/26 解説を少し修正。誤字修正(ご指摘ありがとうございます)
2017/02/16 解説を加筆(第1段落部分)

2015年4月4日土曜日

お会いしたい (뵙고 싶어)

お会いしたい
뵙고 싶어
1991年創作, 리정술作詞, 리종오作曲
幸福あふれるわが家に
うやうやしく迎えたのだ
大切なあの方の写真を
高らかに戴いたのだ
いつでも ひとつ屋根の家族のごとく
ともにいらっしゃる
親しき われらの父
金正日同志
ああ お会いしたい
ああ お会いしたい
毎日 めぐみ深いその肖像
仰ぎみる

英雄になった兄の報せも
ともに分かち
手柄立てた弟の手紙も
ともにご覧くださる
いつでも家族のすべてを
見守ってくださる
親しき われらの父
金正日同志
ああ お会いしたい
ああ お会いしたい
毎日 めぐみ深いその肖像
仰ぎみる


国じゅうの家庭に高く戴く
われらの父
誰もが心の支えとして
頼りにして暮らすのだ
いつでも人民の幸福のため
寝る間も惜しまれる
親しき われらの父
金正日同志
ああ お会いしたい
ああ お会いしたい
毎日 めぐみ深いその肖像
仰ぎみる
행복이 넘치는 우리집에
정히 모셨네
소중한 그이의 사진을
높이 모셨네
언제나 한집 안 식구처럼
같이 계시는
친근한 우리의 어버이
김정일동지
아 뵙고 싶어
아 뵙고 싶어
날마다 자애론 그 영상
우러러보네

영웅된 오빠의 그 소식도

함께 나누고
공 세운 동생의 편지도

함께 보시네
언제나 가정의 모든 일을

보살펴 주는
친근한 우리의 어버이
김정일동지
아 뵙고 싶어
아 뵙고 싶어
날마다 자애론 그 영상
우러러보네

온 나라 가정에 높이 모신

우리 어버이
누구나 마음의 기둥으로

의지해 사네
언제나 인민의 행복위해

잠 못드시는
친근한 우리의 어버이
김정일동지
아 뵙고 싶어
아 뵙고 싶어
날마다 자애론 그 영상
우러러보네
■音源



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2015/04/04 ヽ(´o`;

2015年4月1日水曜日

われらの親善、永遠なれ (우리 친선 영원하리)

われらの親善、永遠なれ
우리 친선 영원하리
2002年創作, パーヴェル・オフシャニコフ作曲(作詞者未詳)
豆満江隔て 横たわる両国
交わす親善の情 深く熱い
新世紀の平和親善 その大路を開いた
金正日 プーチン プーチン 金正日
金正日 プーチン プーチン 金正日

平壌とモスクワ 遠く離れども
たがいの思いのなかで 近くにあれよ
睦まじき対面のなか 手に手を固く握る
金正日 プーチン プーチン 金正日
金正日 プーチン プーチン 金正日

歴史の伝統継ぎ 結ぶ友情は
両国の山河で とわに花咲くのだ
親善の歌となり その名は響きわたる
金正日 プーチン プーチン 金正日
金正日 プーチン プーチン 金正日
두만강 사이두고 펼쳐진 두나라
오가는 친선의 정 깊고도 뜨겁다
새 세기 평화친선 넓은 길 열어주신
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일

평양과 모스크바 멀리에 있어도
서로의 마음속엔 가까이 있어라
친근한 상봉속에 손과 손 굳게 잡은
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일

력사의 전통 이어 맺어진 우정은
두나라 강산우에 영원히 꽃피리
친선의 노래되여 그 이름 울려가는
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일
김정일 뿌찐 뿌찐 김정일
■動画



■解説

朝鮮音楽において、「われらの親善、永遠なれ」は明らかに異色の歌である。こんにち北朝鮮当局が公式に認知している歌のうち、歌詞中に他国の指導者の名を含む歌はおそらく「われらの親善、永遠なれ」が唯一であるからだ。

そもそも、朝鮮民主主義人民共和国の歴史はソ連との親密な関係もとに始まった。そのため、1940年代〜50年にはスターリンの名に言及した歌も創作されている。しかし1950年代中盤以降、金日成が「自主性」を模索する道へ舵を切った。北朝鮮の文芸分野においても、「自主」と「親善」の緊張関係のなかで、安易に他国の指導者を称揚することは敬遠されるようになっていった。そして、すでに存在していたスターリン称揚歌謡のたぐいは歌集などに掲載されなくなり、「なかったこと」にされたのである。

ただ、そうした状況のもとでも例外はあったようだ。すなわち、特に親密な関係にある国(あるいは、そのようにアピールしたい国)の首脳が金日成や金正日などと会談した際、その記念として作られる歌である。このような歌は、関連する芸術公演などで披露されたり、首脳会談の模様を伝える記録映画のBGMに用いられたりする。

たとえば、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクが訪朝した際の様子をまとめた記録映画には、チャウシェスクを称揚する朝鮮語の歌がBGMとして使われている(いつの訪朝の際の記録映画か断定はできないが、おそらく1971年であろう)。「歓迎 チャウシェスク/歓迎 チャウシェスク…」という歌詞を各節に含むこの歌は、内容から推察して、おそらくルーマニアではなく朝鮮側で創作されたものである。

「われらの親善、永遠なれ」も、この「チャウシェスク・ソング」と同じ類型に位置づけることができる。「われらの親善、永遠なれ」が創作された2002年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とロシアとのあいだの「親善ムード」を演出する報道や行事などが(特に北朝鮮側で)相次いだ。同年8月、金正日総書記とプーチン大統領はロシア極東のウラジオストクで会談した。また、それに先立つ3月と5月、ロシアの楽団が平壌で公演している。

ロシア連邦大統領楽団は2002年3月27日、万寿台芸術劇場で公演し、「われらの親善、永遠なれ」を披露した。同公演は金正日総書記も観覧している(조선중앙통신 2002.03.28)。同曲が発表された日付などを特定することはできなかったが、この大統領楽団公演で総書記に披露すべく準備された作品だったのかもしれない。

「われらの親善、永遠なれ」は、北朝鮮・ロシアの「両国の芸術家たちが共同の努力で創作した歌」(로동신문 2011.08.23)である。楽譜には、作曲者名が「ロシア連邦大統領楽団 首席指揮者 パーヴェル・オフシャニコフ」と肩書き付きで表記されている(《조선노래대전집》)。一方、作詞者名は記されておらず、未詳である。ただ、朝ロ両国の芸術家が「共同の努力で創作」した作品とされていて、作曲をロシア側の音楽家が担当している以上、作詞は北朝鮮側の人物(もしくは集団)が担当したと考えるのが自然だろう。

作曲者のパーヴェル・B・オフシャニコフ(Павел Б. Овсянников)は1951年、モスクワで生まれた。モスクワ音楽院カレン・ハチャトゥリアンに学び、1977年に卒業。1978年よりモスクワ・クレムリン司令官付楽団(現・ロシア連邦大統領楽団)に勤務。2002年の時点では同楽団の首席指揮者だった。ロシア連邦人民芸術家(1994年)である。なお、パーヴェル・オフシャニコフは2009年9月、2010年4月、2013年10月などにも「ロシア21世紀管弦楽団」団長兼首席指揮者の肩書きで訪朝。平壌での公演などをこなしている。

2015年現在、ロシアと北朝鮮の関係は比較的良好なように見える。ロシア・メディアは、2015年5月に開かれる対独戦勝70周年記念式典に、金正恩第1書記が各国の首脳と並んで出席すると報じた。

しかし、北朝鮮とロシアの親善が、「われらの親善、永遠なれ」の曲名のごとく永遠のものであるとは限らない。そして、もし北朝鮮の対外関係に何らかの変化があれば、それに関連した歌が影響を受けることは避けられないのである。1950年代以前に制作されたスターリン称揚歌謡は言うに及ばず、上で挙げたチャウシェスクの歌も、『朝鮮歌謡大全集 (조선노래대전집)』など現代の歌集への掲載を確認できない。そのため、作詞・作曲者名や創作年度、正確な歌詞なども含め、詳細はごく一部を除いて不明である。

もし北朝鮮とロシアをめぐる国際関係に何らかの変化があれば、「われらの親善、永遠なれ」も「なかったこと」にされる可能性がある。いまのわれわれが北朝鮮におけるスターリン称揚歌謡の実態を知ることが困難なように、将来の人々が「われらの親善、永遠なれ」の詳細を知るのに苦労する日が来るかもしれないのだ。

いや、「われらの親善、永遠なれ」に限らない。どんな歌も、何らかの事情で「なかったこと」にされてしまう可能性を秘めている。それが朝鮮歌謡の宿命だ。それゆえ、そうなる前に少しでも多くの歌に関する記録を後世に残すことが、こんにち、朝鮮音楽の恵みを享受するわれわれの責務なのではないだろうか。
 
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